ウクライナ東部では2014年に軍とロシアの支援を受けた武装勢力の戦闘が始まり、5年が過ぎても収まる気配を見せない

 

 

 

ウクライナと、その東部の報道を見るたびに、

 

 

「悲しい、どこにも生きようがない、やるせなさ」を、感じます。

 

 

ウクライナの市民(国民)も、

 

 

弱気であり、

 

 

その弱気なら、もう負けてもいいから、もう、それらの地域を、ロシアに挙げてもいいから、

 

 

と、後悔がなく、言いきれるなら、

 

 

 

何も問題は、ありませんが、

 

 

 

中途半端で、

 

 

しかも、

 

 

ポロシェンコ前大統領への非難

 

と、

 

伏せられた対露批判

 

 

は、

 

ウクライナ人たちが、「しっかりしないといけない」ことの証明でもあります。

 

「リベラルのごとく、”夢”を、見ております」

 

 

 

 

 

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<クトゥーゾフの窓から>ウクライナ危機の現場を歩いて(9) 砲撃が続く最前線の村 東部マイオルスク村

7/24(水) 19:15配信

毎日新聞

<クトゥーゾフの窓から>ウクライナ危機の現場を歩いて(9) 砲撃が続く最前線の村 東部マイオルスク村

かつて保育園だったウクライナ軍が駐屯する施設。今は、防備が固められていた=ウクライナ東部ドネツク州マイオルスク村で2019年7月12日、大前仁撮影

 ウクライナ東部では2014年に軍とロシアの支援を受けた武装勢力の戦闘が始まり、5年が過ぎても収まる気配を見せない。7月中旬にウクライナ軍の許可を得て、最前線のドネツク州マイオルスク村を訪れ、銃撃や砲撃が続く中で暮らす人々を取材した。

 ドネツク州の主要都市の一つクラマトルスクから車で1時間あまり。マイオルスク村の約1キロ先は親露派の「ドネツク人民共和国」(DNR)が実効支配している。快晴の日中、その方角から何度となく乾いた銃声が響き渡った。それでも住民たちは慣れきった様子で、爆竹が鳴っている程度の反応しか示さない。

 「良くないことなのだが、銃声を恐れる感覚が鈍った。みんなリラックスしている」。住民の一人、スベトラーナ・サモロドスカヤさん(65)はこう話す。ウクライナでは7月21日に議会選が実施されたのだが、投票日に先立ち、村を訪れた男性の候補者が住民と話していると銃弾が彼の耳元をかすめたという。流れ弾だったのか、意図した狙撃だったのかは定かではないが、村が直面している危険を映し出した格好だ。

 以前の銃撃や砲撃は夜間に限られていたが、最近では日中に銃弾や砲弾が飛び交うことも珍しくなくなったという。私が訪れた前日の午前中も激しい銃撃に見舞われ、外出していたサモロドスカヤさんはしばらくの間、家まで戻れなかったと話す。「今では、どんな時間帯でも、どの方角からでも飛んでくる」と語る。

 ◇激しさを増す親露派の攻撃

 5月に就任したウクライナのゼレンスキー大統領は東部での戦闘停止を実現させようとしているが、親露派と背後に控えるロシアには応じる気配がない。マイオルスクの村民は「むしろ攻撃は激しくなっている」と口をそろえる。

 かつてこの村には2000人近くが住民登録していたが、長引く戦火の影響を受けて、300人程度まで減ったという。サモロドスカヤさんらが住む5階建ての集合住宅も50世帯が住んでいたが、今では18世帯になってしまった。

 2階に住むマリーナさん(31)の部屋では台所の窓の付近が銃撃されて、無数の弾痕が残っていた。マリーナさんは離婚し、2歳の長女ダーシャちゃんを連れて村に戻ってきたという。一人娘を見つめながら「この子まで銃声や砲撃音に慣れてしまって……」と表情を曇らせた。

 村の周囲に埋められた地雷による被害も後を絶たないという。サモロドスカヤさんによると、住民が放牧中の牛を捕まえようとしたり、森を横切ろうとしたりして、地雷を踏んで命を落とす事例も起きている。

 それでも一帯を管理するウクライナ軍の関係者はマイオルスク村について「まだ状況は悪くない方だ」と話す。村には食品や雑貨を扱う商店や薬局が残され、ATMでお金を引き下ろせるし、軍が破損した屋根の修理などに当たっていると説明する。近隣には砲撃される頻度が高く、わずかな住民しか残っていない村もあるという。

 ◇「どこにも行けない」と嘆く高齢者

 かつてマイオルスク村には鉄道駅があった。しかし14年にウクライナ軍と親露派の戦闘が激しくなると、列車の運行が止まり、線路上には貨物車が取り残されていた。この方角にはウクライナ軍が配備されていることから撮影は認められなかったが、貨物車の一部がさびている様子が確認できた。

 村内には鉄道で勤務していた住民も少なくないようだ。そのうちの一人、バレンティーナ・アヌフリエワさん(65)は別の集合住宅に住んでいる。室内を案内してもらうと、度重なる砲撃の衝撃で窓ガラスが激しく破損し、ベニヤ板をはめ込んで雨風を防いでいた。戦闘が始まってからの5年間は暖房も止まったままだという。

 「40年も鉄道で働いてきたのに、月額の年金は2000フリブナ(約8500円)に過ぎない」と、アヌフリエワさんは怒りを込めて話す。同じく鉄道職員だった夫は脳卒中で闘病中だから、破損したガラスを修理するような経済的な余裕がないと嘆く。2人の息子は南部オデッサとロシアの首都モスクワ近郊に住んで、離れ離れになって久しいという。

 アヌフリエワさんがこの集合住宅に入居してから40年近くが過ぎた。ソ連崩壊後には民営化が進み、今では自分の持ち部屋となっている。「ここから出ていった方がいいと勧告されている。でも我々高齢者は今更部屋を借りるようなお金を持ち合わせていない。どこへ行けというのか」。アヌフリエワさんは一緒にいた隣人と声をそろえて現状を嘆いた。

 ◇伏せられた対露批判

 私は3時間ぐらいマイオルスク村に滞在し、10人近くに話を聞き、破損した家屋を見て回った。最前線の村の惨状を目にして気持ちが落ち込んだ一方で、奇妙な気持ちにもとらわれた。何かがしっくりとこないのだ。しばらく、その原因を考えているうちに気がついた。

 それは日々、親露派から攻撃を受けながら、村民の誰もがDNRや背後に控えるロシアを批判しないということだ。その代わりに、親露派との戦闘を進めた自国のポロシェンコ前大統領への非難が止まらなかった。更に国内で政財界を牛耳るといわれている財閥経営者(オリガルヒ)を非難し、「この戦争はオリガルヒ同士の戦いだ」との声が上がった。

 戦闘開始から5年が過ぎた東部の紛争について、ウクライナ政府は「ロシアによる侵略だ」と非難する。ロシアの情報機関に所属していたイーゴリ・ギルキン氏(別名ストレルコフ)が自国の関与を証言したが、ロシア政府は否定する。DNRも「ウクライナ軍との内戦だ」と主張し続けている。

 このような状況で、ウクライナが管轄する最前線で暮らす人たちがロシアの主張に賛同しているのだ。これは東部で続く戦闘の複雑な一面といえよう。マイオルスクの村民がどう語り、どんな考えを持っているのかについては次の回で詳しく述べたい。【大前仁】

 

 

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190724-00000001-maiall-int

 

https://mainichi.jp/ch181015707i/%E3%82%AF%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%82%BE%E3%83%95%E3%81%AE%E7%AA%93%E3%81%8B%E3%82%89?inb=ys

 

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ウクライナ危機の現場を歩いた(8) 残された傷跡 東部クラマトルスク

 

https://mainichi.jp/articles/20190719/k00/00m/030/145000c

 

 

親露派の武装勢力がクラマトルスク市庁舎を襲い、占拠したのは14年4月12日だった。ロシアがウクライナ南部クリミアを強制編入してから1カ月となるのを前に、ドネツクなど東部でも混乱が広がり始めていたころだ。「初めのうちはこれが現実に起きていることとは理解できなかった」。5年前の悪夢を振り返ると、女性副市長のスベトラーナ・ファリチェンコさん(54)は表情を曇らせた。

言葉遣いからロシア人の関与判明

 親露派勢力は自分たちについて、ウクライナ東部の住民で構成されていると説明していた。しかしクラマトルスク市民は、多くのロシア人が参加していたと話す。

 「我々は交通警察の略語を『ガイー』と呼ぶのだが、マスクをかぶった男たちは『ギーベーデーデー』と呼んでいた。すぐに彼らがモスクワやサンクトペテルブルクから来たことが分かった」と市民の一人、ナターシャ・ボニーナさん(32)。ファリチェンコ副市長も、武装勢力の中にロシア南部チェチェン系の構成員が交じっていたことを目にして「自分の街で戦争が起きていることを実感した」と語る。

 市庁舎を乗っ取ると、武装勢力は親露派組織の旗やロシア国旗などを翻し、人口19万の都市を支配下に収めたことを誇示した。

 当時は市議だったファリチェンコ副市長は身の危険を感じ、5月に入ると、3人の子どもを連れて400キロ近く離れた中部の都市まで避難した。7月初旬に町が解放されるまで戻ってこなかった。残していった自家用車が盗まれていたほか、事務所の破損もひどかったという。当時はさまざま々な情報が飛び交ったが、ボニーナさんは武装勢力により拘束されたり、拉致されたりした市民が相次いだとも話す。ファリチェンコ副市長によると、どの程度の市民が避難したのかは分からず、今でも戻ってきていない若年層も少なくないそうだ。「当時の記憶が消えていないから、地元の人たちも、投資家も投資に後ろ向きだ」という。

 ウクライナ軍は近くにある空軍基地を守るため4月下旬に増派されて、6月後半には武装組織との砲撃が激しくなった。やがて兵力に勝るウクライナ軍が武装勢力を駆逐し、14年7月にクラマトルスクを解放した。今年の7月5日には、解放から5年を祝うパレードが催されて、参加した1500人の市民が喜びを新たにした。

街中に残る砲撃の痕

市中心部にある9年制の学校の壁には無数の弾痕が残されていた=ウクライナ東部クラマトルスクで2019年7月11日、大前仁撮影

細長く延びるシェルターを照らすボニーナさん=ウクライナ東部クラマトルスクで2019年7月11日、大前仁撮影

シェルターにはキリスト教のイコンも飾られていた=ウクライナ東部クラマトルスクで2019年7月11日、大前仁撮影

 クラマトルスクでは駅舎が建て直されるなど復興が進むが、市中心部には戦闘の痕跡が残されている。市庁舎から数百メートルに位置する9年制の学校では、れんが造りの壁に無数の弾痕が刻まれていた。周囲の歩道にも、砲撃でえぐられた穴がいくつも残っていた。

 5年前の交戦の際、ボニーナさん一家が避難したシェルターにも案内してもらった。ソ連時代に米国との核戦争に備えて作られた地下シェルターだ。集合住宅の内部に入り、階段脇にあるシェルターの扉を開けると、暗闇が広がっていた。携帯電話の明かりを頼りに進むと、細長い空間に長いすやベッドが置かれていた。当時は20人以上が避難したこともあったという。真っ白な壁にはキリスト教のイコンも飾られていた。

強かったロシアへの憧れ

 なぜクラマトルスクでは、武装組織に占領されるような事態が起きたのだろうか。後になって、占領計画を指揮したロシア側関係者の証言により、ロシアの情報機関が中心となり実行されたことが判明している。

 当時のウクライナが置かれた状況を見てみよう。ウクライナは1991年に独立を果たしたが、経済の構造改革を進められずに苦しい状態が続いた。そのためロシア語を話す住民が多い東部や南部では自分たちよりも裕福で、文化的なつながりの強いロシアに憧れる傾向が強かった。ロシアもこのような感情を踏まえ、ウクライナ国内の住民に対し、自国との連帯を強めるように呼びかけてきた。これが「ルースキー・ミール」(ロシアの世界)と呼ばれる考えである。特にクリミアがロシアに編入される過程で、大きな役割を果たした思想だった。

 クラマトルスクはドネツクの北方約100キロに位置し、炭鉱や鉄鋼業で栄えた。民族的にはロシア系とウクライナ系が混在しているが、日常会話ではロシア語を使う人が圧倒的に多い。また鉄鋼の輸出先として、ロシアとの経済的なつながりも強かった。

 このような環境故に、多くの住民がルースキー・ミールの思想に引かれたのだろうか? 前述のファリチェンコ副市長に尋ねると、真っ向から否定された。ただ、一部の住民は自国の年金の低さを嘆き、ロシアでは給与が高く、全てが順調に機能しているとの幻想を抱いていたという。

 一方、クラマトルスクなど東部では以前からウクライナから独立しようとした動きがあったとも指摘されている。この点についても、ファリチェンコ副市長は「ウクライナから独立しようという動きは(ロシアが関与した)情報戦の一環として仕組まれたものだった」と指摘。「私自身がそのような動きに誘われたのだから、身をもって知っている」と語り、住民が主体となるような独立の動きはなかったと強調した。

根強い親露派への支持

 クラマトルスクは親露派による恐怖統治を体験したが、今でも親露感情が根を張っている。ウクライナでは7月21日、最高会議(議会)選挙が実施される。選挙戦ではゼレンスキー大統領=5月に就任=の与党やポロシェンコ前大統領の政党など欧米との関係を重視する主張が目立つが、一方で親露派政党「野党連合」も議席を伸ばしそうだ。特に東部では、親露派政党が根強い支持を得ている。

 「ゼレンスキーは大統領に就いても何もやっていない。(何よりも)ロシアとの関係を損ねてはいけない」。私がクラマトルスク中心部で何人かの有権者に質問した際、68歳の男性エフゲニーさんは親露派政党に投票すると明言した。近隣地域で続く戦闘についても「内戦に過ぎない」と切り捨て、自国の関与を否定するロシアの主張を全面的に受け入れていた。

 このような見方が少数派ではないことは、ファリチェンコ副市長も認めている。「私が恐ろしいと思うのは、いまだにロシアの方を向いている人たちがいることだ。物陰に隠れて、新たなチャンスをうかがっているのだ」と警戒する。

 この女性副市長も身内を巡り、身を切るような苦しみを味わってきたという。彼女には20代のおいが2人いたが、14年に戦闘が始まると2人とも親露派武装組織に参加した。「彼らは幼時に父親から見捨てられ、私が家族のように育ててきたのだが……」。声を振り絞るようにして、苦い思い出に言及した。町が解放されて5年が過ぎたが、建物に傷痕が残るだけではなく、人々の心の傷も癒えていなかった。【大前仁】