そうですよね!素晴らしい記事です。

 

大森山王・馬込あたりは、東京で有数の(田園調布以前の)

 

『超・高級住宅地』でした。

 

射的場もありました。

 

山王テニスクラブもありました。(あります)

 

大きなお屋敷ばかりでした。

 

政・財界の、超・お偉方の半分や、文筆家の3分の2が、

 

大森・山王に住んでいた時代でした。

 

大森山王のお屋敷街を歩きますと、

 

日本の超・一流・大企業の、

 

創業者、

 

会長

 

社長

 

サンたちが、お屋敷を構えておりました。

 

ジャーマン・ベーカリーや、

 

ドイツ風のソーセージを売るお肉屋さんも、ありました。

 

逆に言いますと、

 

東京の、山手線や、京浜東北線の駅で、

 

「一番発達しなかった」

 

ゆえに、「閑静な街並みが、いまだに、守られている」

 

という結果になっていると思います。

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

 

かつて大田区の中心は蒲田でなく「大森」だった

7/7(日) 5:10配信

東洋経済オンライン

かつて大田区の中心は蒲田でなく「大森」だった

利用者の往来が激しい大森駅西口だが、駅前広場やバスロータリーなどは整備されていない(筆者撮影)

 時代をさかのぼること70年前、1949年の大田区は大いに揺れていた。

 大田区は1947年に大森区と蒲田区が統合して誕生。新たな区名は、それぞれから“大”と“田”を一文字ずつとって大田区とした。

【写真】京浜東北線を見渡せる線路脇に建立された大森貝塚の碑

 大田区の誕生から、わずか2年。まだ特別区に馴染んでいるとは言い難い状況で、大田区は自治権が制限されている特別区から脱して、新たに大田市になることを区議会で議決する。区議会の決議で、大田区は庁内に大田市制施行促進本部を設置。市制施行への準備を進めた。だが、大田区の念願は叶うことなく、今に至っている。

■大森は大田区の中心だった

 今般、大田区は町工場の街、羽田空港の門前町といったイメージで語られることが多い。それは平成の30年間で強くなったイメージであり、昭和50年代までの大田区はものづくり産業だけではなく、商業地域としてもにぎわい、海苔の養殖なども盛んだった。なにより、高級住宅街が広がる住民自治意識の高いエリアでもあった。

 最近では羽田空港による恩恵もあって、区の中心的な役割はJRの蒲田駅・京急蒲田駅一帯に移りつつある。しかし、昭和50年代までの大田区で、街のにぎわいを牽引したのは大森駅周辺だった。大森駅一帯には、ダイシン百貨店(現・MEGAドン・キホーテ大森山王店)や2019年5月に営業を終了したばかりの高級スーパー・カドヤ食品が軒を連ねていた。そうした高級店が並んでいたことからも、往時の一端を窺える。

 現在は京浜東北線しか停車せず、大森駅はあまり目立つような存在にはなっていない。しかし、駅開設当初は違った。東海道本線は1872年に開業するが、その4年後に大森駅は開設される。当時、京浜東北線は運行されていない。大森駅に停車するのは、もちろん東海道本線の列車だ。

 大森駅が開設された背景には、東海道本線の品川駅―川崎駅間の距離が長く、その中間地点に駅が必要だったことも一因とされる。だが、最大の要因は、大森に東海道本線の建設や保守を請け負う作業員の詰め所があったことだった。

 

 

 

大森に詰めていた作業員の多くは日本人だったが、現場監督・技術者といった指導的な立場には外国人が少なくなかった。その外国人の多くを占めたのがドイツ出身者だった。

 当初は作業員の便を図る目的で開設された大森駅だったが、駅開設直後に思わぬ福音がもたらされる。来日した動物学者のエドワード・シルヴェスター・モースが、大森貝塚の存在に気づいたのだ。モースは大森駅停車中の列車内から貝塚を発見している。駅がなければ一瞬で通り過ぎてしまうから、気づくことはなかっただろう。大森駅の存在が、世紀の発見を生んだ。

 駅が開設されてからの大森駅は、目覚ましい発展を遂げていく。1884年には、駅西側に高級庭園料亭の八景園が開業する。大森駅から都心部への好アクセスが富裕層の目にとまり、大森駅の西側に広がる高台、現在で言うところの山王に高級住宅街が形成されていった。

 大田区の高級住宅街と言えば田園調布が知られているが、田園調布の開発は関東大震災以降に本格化し、歴史的に大森よりも後発だ。

 田園調布よりも約30年早くから、山王の開発は始まった。山王の高台は「木原山」との別名がつけられ、木原山には内閣総理大臣を務めた桂太郎西園寺公望、清浦奎吾、芦田均、明治の元勲でもある井上馨、大審院(現・最高裁判所)院長を務めた児島惟謙、鹿児島県知事などを歴任した加納久宜などが邸宅を構えた。

■政財界の大物や文士が集う街に

 戦後になっても、木原山には政財界の大物が住んでいる。自民党ナンバー2の権力者として政界に隠然たる力を発揮した川島正次郎が邸宅を構えたほか、元総理大臣の宮澤喜一も幼少期を過ごした。

 木原山には日本帝国小銃射的協会が隣接するように開設されたが、射的場は住民たちが交流するテニスクラブへと姿を変えた。テニスクラブは地域住民の社交場として機能した。そして、そのテニスクラブは現在に至っても営業している

 

 

 

木原山に隣接した馬込には、同じく文士たちが集う馬込文士村も形成された。馬込文士村が形成されたのは政財界の重鎮たちが木原山に邸宅を構えた時期より遅いが、多くの文士が住み、文化を発信したこともあって今では馬込文士村のほうがメジャーな存在になっている。

 当時は地下鉄が未開業だったので、馬込文士村の最寄駅は大森だった。1968年に都営地下鉄馬込駅が開業すると、大森駅から文士村のイメージはやや薄らぐ。それでも、文士村は大森駅界隈において観光コンテンツの目玉であり、駅前の天祖神社には馬込文士村を記念したレリーフが設置されている。

 その一方で、大森繁栄の端緒を切り開いた木原山の痕跡は乏しい。木原山は計画的に整備された住宅地ではなかったため、文書などもほとんど残されていない。そうした背景もあって、馬込文士村と比べると知名度も小さく、それらを今に伝える碑なども少ない。

 だが、木原山が及ぼした影響は無視できない。そうそうたる面々が邸宅を構えたこともあって、木原山は世間から“荏原郡の貴族院”として君臨した。“荏原郡の貴族院”なる呼び名は、単に高級住宅街を指し示すものではなく、社会的にも大きな影響力を発揮した。

 “荏原群の貴族院”の面々によって、1906年に大森倶楽部が設立される。初代委員長には児島惟謙が就任。社会貢献や地域振興を目的とする大森倶楽部は、結成直後から大森駅の利便性向上に取り組んだ。

 大森駅は作業員詰め所を昇格させる形で駅になったため、待合室のようなものがなく、乗り場としてプラットホームがあるだけだった。利用者が多くないとはいえ、これでは雨の日などに利用しづらい。また、当時の駅は東口しかなく、駅西側の住民は跨線橋を渡って東口に迂回していた。そんな不便を解消するために、大森倶楽部は待合室の設置や西口開設を要望し、実現させている。

■東京屈指のリゾート地に

 西口開設が実現して間もなく、京浜線(現・京浜東北線)の運行が決定。京浜線は大森駅にも停車することになるので、住民は大森駅の利便性が高まると期待した。

 その一方、京浜線の運行開始に伴って、駅を拡張する必要が生じた。狭隘な場所にある大森駅だけに、駅の拡張は西口の閉鎖の危機でもあった。しかし、大森倶楽部が敷地用地費と駅舎改修費に必要な資金2000円(当時)を提供し、西口は存続する。

 

 

高級住宅街が広がる駅の西側に対して、東側は海に近い。大森駅が開設されてから、駅東側は海水浴客でにぎわうようになった。さらに、大森海岸には鉱泉も掘削される。旅館が立ち並び、温泉街が形成される。こうして、大森に東京でも指折りの観光リゾートが誕生した。

 また、1901年には京浜電鉄(現・京浜急行電鉄)が多摩川を越えて線路を延伸。大森海岸駅を経て大森駅の東側に停車場が開設される。こうして大森駅前から電車に乗って、気軽に大森の海水浴場や温泉街にアクセスできるようになった。

 大森駅と大森海岸駅の間には商店が並び、多くの人が訪れるようになると、1929年に白木屋百貨店大森分店(現・東急ストア大森店)がオープンする。白木屋百貨店大森分店は、ドイツ建築の影響を強く受けた建築家・石本喜久治が設計を手がけた。白木屋が店舗を構えるほど、大森駅東口は商業地としてにぎわった。

 さらに、大森支線の開業とほぼ同時に、京浜電鉄は大森地区で電力供給を開始。こうして、官と民の鉄道によって、大森は住宅地としても商業地としても発展を遂げた。

 だがその後、都心へ乗り入れるために京浜電鉄が線路を品川駅まで延伸すると、大森駅と大森海岸駅の間、約0.7kmの区間は支線に転落。利用者は減少し、大森支線は1937年に廃止された。また、1930年に東海道本線は停車しなくなり、大森駅は京浜線のみの停車駅になったものの、地域の発展は続いた。

 大森の地域振興や産業発展を語るうえで、忘れてはならないのが大森倶楽部2代目委員長に就任した加納久宜だ。明治初期、加納は鹿児島県知事や千葉県一宮町長を務める名士だった。

 木原山に居住した加納は、地場産業を振興させるべく入新井信用組合を設立。加納は、公益事業の振興こそが地域発展につながると説いた。そして、信用組合の設立によって、教育や農業といった公益事業への投資モデルを構築する。

 加納の設立した入新井信用組合は、全国の協同組合の模範とされた。入新井信用組合は1951年に城南信用金庫と名称を変えて今に至るが、加納の掲げた公益事業重視の思想を連綿と受け継ぐ。福島第一原発事故後、城南信用金庫はいち早く脱原発を表明。原発に依存しない社会づくりに取り組んでいる。

 

 

 

■駅がもたらしたドイツ文化

 大森駅の開設は、大森に外国文化を流れ込む作用ももたらした。

 明治期の鉄道工事では、外国人技術者が指導的な役職についていた。そのため、大森には外国人居住者が多かった。特に、鉄道作業員にはドイツ人が多くを占めたこともあり、大森にはドイツ人のコミュニティが自然発生的に生まれる。そうした影響から、1925年には大森駅西側に東京独逸学園が開学する。

 東京独逸学園の敷地は、約4000平方mと狭かった。時代とともに学校敷地も広さが重視されるようになり、1991年には老朽化などの理由もあって横浜市の港北ニュータウンへと移転した。

 60年にわたって日独友好のシンボルとして地域住民から愛された東京独逸学園は、大森から姿を消した。東京独逸学園は消失したものの、大森駅西口から環状7号線までを結ぶ道路にジャーマン通りの名称が残されて、ドイツの残り香を漂わせる。

現在、区役所は蒲田駅前にあるので、区の中心も蒲田駅一帯と目されている。大田区役所が蒲田駅前に移転するのは1998年。それまで大森駅の近くに所在していた。

 これまで触れてきたように、大森は駅の開設も早く明治期から発展した。また、東京都心部からも近い。そうした理由から、戦後も大森は大田区の中心的な存在だった。

大森駅と蒲田駅が逆転するきっかけは、高度経済成長期にある。大田区内にはものづくりの工場が増えた。一方、大森エリアは羽田空港の拡張によって基幹産業だった東京湾の海苔養殖が壊滅的なダメージを受ける。こうして、大田区の主要産業は交代することになり、区の中心軸は蒲田側へと移る。

■区役所移転後も大健闘

 そして、大森駅と蒲田駅の立場を完全に逆転させたのが、区庁舎移転だった。旧大田区庁舎は、大森駅から南に徒歩15分の位置にあった。現在、同地にはコンサートホールや図書館といった多機能型複合公共施設の大田文化の森が立っている

 

 

 

 

大森駅西口から旧区庁舎までは歩道も車道も細く、すぐに渋滞が発生してしまう。また、駅西口は狭隘な地形のために、バスロータリーを整備することもままならない。駅西側を何とかしようと行政もあれこれ手段を模索したが、狭隘な地形がそれらを阻んでいた。

 そして、きわめつけがバブルの崩壊だった。蒲田駅前にあった商業ビルがバブル崩壊の余波で空きビル化してしまう事態が発生。駅前空洞化を防ぐ目的から、大田区が空きビルを取得し、区庁舎として活用することで決着する。

区庁舎が大森から移転したことは痛手だった。古豪・大森駅としては蒲田駅に逆転を許したことに忸怩(じくじ)たる思いだっただろう。しかし、蒲田に庁舎が移転したことが理由で大森駅が衰退したわけではない。相対的に、蒲田駅が伸びたにすぎない。

 大森駅の利用者数の推移をみても、東京都心部から近いというメリットが評価されている。2017年度の1日平均乗車人員は約9万6000人。京浜東北線1線しかない駅ながら大健闘している。そこに、庁舎移転による負の影響は見られない。むしろ、都心回帰の影響もあって、利用者は微増傾向にある。

 ネックになっていた大森駅西側の開発は、2019年に入ってから区が整備の基本方針を示すなど、新たな動きが活発化している。

小川 裕夫 :フリーランスライター

 

 

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190707-00290604-toyo-bus_all&p=6