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戦国武芸者決闘列伝・2 剣豪将軍義輝の死③

足利義輝は、幼少の頃から武芸を学んでいた。それは別段に珍しいことではない。彼はまた、上泉信綱と塚原卜伝という、当代を代表する二人の剣豪に教えを受けている。それは凄いことではあるが、例え実際の政治権力はなくとも、曲がりなりにも将軍であるという地位からすれば、必ずしも特筆に価することではないかもしれない。だが、これだけは言える。彼の剣術は、いわゆる殿様剣術では断じてなかった。また、稽古場の中の技術的上達だけで完結するという類のものでもなかった。そして、どうやら彼は求道者タイプではなかったように思われる。むしろ、剣術の修行で得た身体的あるいは精神的な感覚を、自分が将軍として生きてゆく上で実際に生かそうとしていた節がある。


例えば彼は、新技術や新思想を否定しなかった。


義輝は鉄砲に非常に興味を持っていた。九州からわざわざ砲術書を取り寄せるほどであり、またイエズス会の宣教師を保護し、砂時計を献上されたりもしている。政治的な活動も可能な限り積極的に行っている。その指向するところは、国家元首たるというよりも、むしろどうやら現在の国連のようなものであり、地域紛争の調停に実績を上げた。上杉謙信や織田信長が短期上洛した際には謁見で応え、上杉謙信には自らの一字をとって『輝虎』の名を与えたりもしている。


前回記した通り、義輝を傀儡化していたのは三好長慶であった。長慶は義輝を牛耳った張本人ではあるが、一面、奇妙な形で義輝の保護者でもあった。長慶は義輝を殺害することが十分可能だったが、ついにそれは思いつかなかったか、あるいは得策でないと判断していた。軍事指揮能力が高く、経済に対する考えも鋭敏な男であったが、全体としては、既存の体制を根こそぎ反覆するというような思想の持ち主ではなかった。


だが、1564年、長慶はこの世を去る。あるいは少なくとも、去ったとされている。その死に至る過程はどす黒い謎と疑惑に満ちている。

ショットガン

薬莢


これが何かわかる人はどれくらいいるだろうか。実はこれ、12番径の散弾銃の薬莢なのである。


私は小さい頃から、銃声を聞いて育った。


私が通っていた小学校は、冬になって猟期に入ると、「登下校する際は国道を通り、なるべく裏道を通らないように」「通る場合には目立つ色の服を着て、大声で話しながら歩くように」と指導されるような学校であった。後年、北海道出身の友人から、やはり小学校時代に全く同じフレーズで指導されたという思い出を聞いたことがある。だが、彼の場合が熊よけのためであるのに対し、私たちの場合はハンターよけのためであった。何しろ、所と場合によっては、ハンターが鳥や兎を狙って節分の豆みたいに散弾銃を撃っているのである。


今ではだいぶハンター自体の数が減ったようだが、それでもちょっとそこらへんをうろうろすればこのように薬莢を拾える。銃猟禁止区域内で拾ったものもあることをついでに付け加えておこう。中には、明らかに銃を持つ資格がないような、劣悪で粗末なハンターもいる。以前には地域住民との間でいざこざもあった。屋根に散弾が落ちてきたとか、墓石に弾が食い込んだとか、そういうことでである。民家のすぐそばで発砲するのも、水平に射撃するのも許されない行為であることは言うまでもない。かく言う私も一度、高校生の頃にそのようなドンパチをやらかしたことがある。犬を散歩させていたら猟犬が来てうちの犬に噛みついたので田んぼに蹴り落とし、ついでに銃を持ってあとからきた飼い主に向かって「おまえもやるか!」なんて凄んでしまったのである。むこうが謝ってくれたからいいようなものの、今から考えると危ないことをしたものだと思う。私もアホな少年であった。


スタインベックの小説に、砂袋に鹿の角をくっつけたのを猟期の間ハンターの来そうな場所に置いておき、シーズンが終わると中から鉛弾を取り出してせっせと小遣い銭を稼ぐ中国人が出てくる。殺傷能力のある武器を、本来それを扱う能力がない人間が持っている姿というのは大変こっけいである。


だが、撃たれる方は必死である。うちの近所の鳥たちは撃たれ慣れているため、手ぶらで近づいても逃げないが、写真を撮ろうとカメラを向けた瞬間にすごい勢いで逃げる。これはカメラだといくら言ってもわかってくれない。複雑な心境である。

千葉の人。

私は田舎モンである。


田舎で生まれて田舎で育ったのだから仕方ないが、人間の属性として都会の人じゃないのは明白なところである。


学生の頃は都内に住んでいたりして、その時はあたかも自分が東京の人間になりきったかのような錯覚にとらわれていたが、再び千葉で暮らし始めて時間が経つと、東京的な行動や思考のリズムをもはや完全に失ってしまった。だいたい千葉の人と東京の人では歩き方からして違う。


以前、後輩を横に乗っけて車を運転している時に指摘されたのだが、東京から千葉に向かって走り、江戸川を越えた途端に私の喋り方が横柄になったそうである。それまで「それでね、これはさあ」とか言ってたのが、千葉県内に入ると同時に「おおお、おめえよお」みたいな感じになったという。自分では全く自覚していないのが恐ろしいが、おそらく、東京にいるときの私は心のどこかで緊張しているのであろう。それが千葉に戻ってくると地が出てしまうということなのであろうか。


本当に素晴らしい田舎モンであるならば、どこにいようが何をしていようが田舎モンらしく堂々としておらねばならないはずである(それがどういう状態なのかは私にはわかりかねるが)。それが場所によって態度を変えるようではいけない。ましてや、ホームグラウンドでだけ威張っているというのはかなり恥ずかしいものがある。かと言ってどこででも威張り散らしたらそれは一昔前にはやった『ノーキョーさん』なのであり、なおさら恥ずかしいことになる。要するにどこででも落ち着いた常識ある態度を示しておれば良いのであるが、そうなるとこれは田舎や都会というより単に人間性の問題である。考え出すとグルグルである。都会生まれの人はこんなくだらんことは考えなくて良いのであろう。うらやましい。だが都会は水も空気もまずい。うらやましくない。それに千葉のカラスは怖くないが東京のカラスは怖い。何の結論も出ないが、今日はこのへんで。

戦国武芸者決闘列伝・2 剣豪将軍義輝の死②

足利義輝が征夷大将軍となって二年後の1548年、父であり先代将軍である義晴は、抗争を続けていた細川晴元と和を結び、京都へ帰還した。この際、晴元も義輝の将軍就任を認め、ひとまず小康状態が訪れた。形はどうあれ、将軍と管領は再び何らかの関係を築くことができるかに見えた。


しかしそれはほんの一瞬の夢でしかなかった。晴元の家臣・三好長慶がクーデターを起こしたのだ。1549年、晴元の軍勢は摂津国の江口で長慶と戦った。そして壊滅的な敗北を喫し、今度は晴元が義晴・義輝親子とともに近江へ逃亡するというシニカルな事態となったのである。


1550年、義晴は近江坂本で死んだ。義輝は、かつて父が細川晴元との間でそうしてきたように抗争を続けるが、勝ち目はいつも薄かった。長慶は下克上の代名詞の一人に数えられることもあるが、人間的には保守的な教養人であり、バランス感覚の優れた政治家でもあった。彼は事実上、近畿を掌握していたが、自ら幕府を樹立する気も、既存の将軍を殺害する気もなかった。最終的に長慶は義輝と和睦し、これを丸抱えにし、傀儡化して幕政の権力を握る道を選んだ。


征夷大将軍として生まれながら、政治家・武将として、あらかじめ苦闘を義務づけられていた男。本来、当然に手に入るべきものが決して手に入らないことを運命づけられていた男。それが義輝であった。だが、運命を味方につけられなかった彼は、自分自身を磨き続けていた。彼には、おそらく、この国の開闢以来のあらゆる国家元首の中で、誰よりも勝っていることがあった。それは、武術家としての技量と情熱であった。例え世の中を思い通りに動かすことができなくとも、自分ひとりで戦い続ける力であった。

戦国武芸者決闘列伝・2 剣豪将軍義輝の死①

室町幕府の衰退は、事実上、三代将軍義満の死とともに既に始まっていたと言っても過言ではないだろう。義満は本気で皇位簒奪を企てたほどの権力と栄華を誇ったが、その望みが遂げられる寸前に病魔に倒れた。跡を継いだ四代将軍義持は有力な守護大名との権力調整に苦慮しつつ安定を保っていたが、嫡男義量に将軍の座を世ずると、義量は体調を崩し、わずか二年後に十九歳で死んだ。何一つ先のことが定まらない中での死であり、その後継者は何とくじ引きで選ばれる有様で、京都男山の石清水八幡宮で行われたくじ引きの結果、それが真実のくじ引きであれ操作されたものであれ、義持の同母弟で先に仏門に入り天台座主となっていた義円が還俗し、六代将軍義教となった。


そのような経過にもかかわらず、就任後の義教は中央集権体制構築に邁進し、強い指導力を発揮した。彼には仏門の出身とは思えない過酷な性格があり、恐怖による支配を専らにした。彼はその生涯に渡って実に多くの人を殺し、伏見宮貞成親王の日記に「万人恐怖し・・・」などと記されるほどであったが、最後には播磨の守護・赤松満祐と、その所領没収を巡り感情の行き違いを起こし、酒宴に招かれて暗殺されてしまった。鎧武者の一団が宴に乱入して将軍の首を斬るという凄惨なものであった。その一面偏った異常な性向といい部下を追い詰めて逆に殺されてしまうような運命といい、この義教は後の織田信長に似たところがある。比叡山の宗徒を虐殺したりもしている。


またしても急遽、その跡を継いだ嫡男の義勝はまだ九歳の子供であり、実質的な権能は管領の細川持之に奪われてしまい、しかも在位八ヶ月で死去してしまう。病死とも事故死とも暗殺とも言われる。そしてその後釜に座らされたのは八歳の弟・義政。最初から政治的な実権はほぼ皆無であり、正室の日野富子を寵愛した挙げ句、幕府崩壊の引き金を引いてしまう。当初嫡子がなかった義政が弟の義視に譲るはずだった将軍職を、富子は後から自分との間に生まれた義尚に譲らせようと画策したのである。両者の背後にはそれぞれ有力な守護大名がつき、日本全国を二つに割る大戦争が開始された。これが応仁の乱である。乱は十年に及び、京都は焦土と化した。が、義政は本気で事態の収拾を図ろうともせずまたその能力もなく、酒宴や歌会に日々を送っていた。


それからの室町幕府は複雑怪奇な経過をたどる。義政が将軍職を譲ったのは義尚であったが、守護大名たちは既に幕府を無視して独自に領地拡大に走るようになっており、義尚はそのような挙に出ていた近江守護の六角高頼を討伐しようとして一年半に渡って在陣を続け、その陣中で病没した。


続いて十代将軍になったのは先に義尚を盛りたてる勢力と応仁の乱を戦った義視の息子、義材であった。なんと、義視は義政と和睦したどころか日野富子とも結託し、幕政を裏から動かすようになっていたのである。しかし義視が死ぬと義材は日野富子及び管領細川家に排撃されるようになり、京都を追われ、軍事的・政治的に敗北を繰り返しつつ諸国を転々とした。その間、日野富子と管領細川家は義政や義視の弟である政知の子・義澄を十一代将軍に擁立するが、義材から名をあらため義稙は中国地方に勢力を張る守護大名・大内氏の力を借りて京都を奪還し、将軍職に返り咲く。


しかししばらく経つとまたも管領・細川高国に京都を追われ、最後は四国は阿波まで流れて死去した。細川高国は義澄の長男・義晴を擁立し、十二代将軍に据える。ここに至ってもはや将軍は独自の戦闘力も政治力も持たなかった。高国が弟の晴元と対立すると、晴元は義晴の弟・義維を盛りたてて高国と争い、高国は敗れて失脚し、義晴も近江朽木谷に逃れた。以降、義晴は晴元と和解したり追われたりを繰り返すが、何度目かの近江への避難の際、将軍職を嫡男の義輝に譲り、その後見人となった。時に天文十五年、すなわち一五四六年のことであった。義輝が十三代将軍となったのは、そのような情勢の下だったのである。


▽おことわり・・・火曜日のブログですが、トラックバックを消すつもりがうっかり本文を消してしまいました・・・