MBA取得過程での自己管理能力と机の上の整理整頓
MBAへのアプライの準備期間と大学院での2年間は、自己管理能力を磨く良い機会であった。PDCA(Plan Do Check Act)サイクルを自分の生活の中に習慣づけることができた。
PDCAを実践ができる能力は自己管理能力のひとつであろう。MBA仲間を見ているとPDCAサイクルを生活レベルで実践している人が多いと感じる。
そもそもPDCAサイクルを実践できる人がMBAを取得するのか、もしくはMBA取得の過程で身につくのかは判らないが・・・。自己管理ができない人とはあまり職場では一緒にはなりたくはないと思っている。
これまで20年あまりの間に転職、異動、出向などで、10箇所以上の職場に席を置いた。概して言えば、整理整頓ができない人は仕事が雑な人が多かったと記憶している。
そして、個人の生活もだらしのない人が多かった。金融機関や業績が好調な企業では整理整頓ができない人はあまりいなかった。
一方、金融支援を受けたような企業や半官半民企業に勤めたときは汚い机を放置している人が多かった。
バブル真っ盛りに大蔵省の2つの課へ何度も足を運んだが、両課ともこんな環境で仕事ができるかというほど汚かったと記憶している。当時、一緒に行った知人に、「これでは大蔵省、政策や省内管理もやばいんでないの」と言ったことを記憶している。
その後、大蔵不祥事や他官庁も含む官僚バッシングが始まった。当時でさえ、外資系金融機関のオフィスは少なくとも外面は綺麗だった。いわゆるグローバルスタンダード(アメリカンスタンダード)を基本的には支持しないが、大蔵の汚さは外資系金融機関のスタンダードとはかけ離れていたようだ。
金融庁や財務省になってからは行ったことはないが、噂では少しは綺麗になったと聞いている。
ちなみに、学生時代大手新聞社の本社政治部でバイトをしていた。新聞社の職場は汚いというイメージを持っていたが意外と綺麗だった。大蔵省よりは随分とましだった。
たかが「整理整頓」だが、自己管理能力をみることができる簡単な方法と考えている。
いまの職場は本当に汚い。自分の机以外は読まない書類、書籍などで囲まれている。この4月1日異動で隣の席が空いた。綺麗だったのは1日だけで、翌日から書類や雑誌がもう積まれつつある。
ちょっと睨んでいるのだが、知らぬ振りを決めこんでいる。
理由あって、ちょっとダメダメな職場にいるのだが、本当に整理整頓できない輩が多い。「郷に入らずんば郷に従え」とはいうがほどほどにしないと・・・。
文化不毛の地名古屋
(ttp://www.toyota.co.jp/jp/community_care/domestic/mecenat/tmp/2005/01/トヨタ自動車ホームページより)
に行ってきました。数点気になったことがありました。
・数ヶ月前のチケット購入時に、「S席、A席売り切れと」2つのチケット販売業者にいわれました。
当日行ってみたら、S席、A席が1割から2割が万遍なく空席です。主催者等が招待客にくばり、受け取った人が行かなかったから起こった結果でしょう。
「文化不毛の地名古屋での講演だからかなあ」と思いました。
・隣に座ったおやじの膝と膝がぶつかります。大きく股を開き、膝があきらかに私の席の領域にはみ出しています。咳払い、視線で苦情を訴えましたが、改善の様子はありません。
2つ目の演目が終了したとき、クレームをつけました。わびの言葉はなく、そんなことで文句をいうなという言い草です。
「やれやれ文化不毛の地名古屋」。
過去20年数年、海外・東京在住時で幾度とクラシック・オペラのコンサートに行きましたが、膝がぶつかる経験ははじめてです。
・マーラーの第一楽章の後、一部で拍手が起こりました。
これまた、あまり起きないことです。「やれやれ文化不毛の地 名古屋」。
かつて、なんかで読んだのですが、あまりにも演奏がすばらしかったら、楽章の間に拍手をしてもマナー違反ではないと聞きましたが、本当のところはどうなのでしょうか?
おとなの話‐Maturity
足が速い奴、女の子の間の人気者、先生に贔屓してもらえる奴、うちでは買ってもらえないオモチャを買ってもらえる奴。
でも、運動会の前に足が速い奴にこっそり怪我をさせたり、人気者や贔屓してもらえる奴の欠点を告げ口したりして、彼らの足をひっぱったりはしなかった。お宝のオモチャをこっそり壊したりしたことも断じてなかった。
子どもの頃は、自分ばかりか大半のクラスメートはそんな卑劣な真似はしなかったと思う。自分が知らなかっただけかもしれないが、卑劣な奴は少数だった。
足が速くなるように練習をしたり、女の子にもてるようにおしゃれをしたり、先生の気を引くようにまじめに勉強したり、一生懸命に教室の掃除をした。
要は「うらやましい」と思ったら、「他人の足をひっぱる」ことなく、自分で努力をした。親にオモチャを買ってもらえるようにするのは、家計の差ゆえ子どもの努力ではなかなか克服できずあきらめた。あきらめることも覚えた。
成人の社会は、「うらやましい」と思ったら、自分が努力をせず他人の足をひっぱる奴が大半だ。これまで、数万人単位の大組織や100人あまりの小さな組織にも勤めたが、こんな奴らが大半だ。
この辺のことを、和田秀樹氏は「嫉妬学」という本で体系化している。和田氏と同じようなことを考えていたのに、和田氏は出版、小職はブログ。和田氏がうらやましい。努力しなきゃ。
日本には成人の社会はあっても「Maturity」という概念がない。ある米国人に日本人は「Maturity」がない人が多いといわれた。日本には「Maturity」という概念がないといったほうが正確であろう。「Maturity」の意味するところには、嫉妬を感じたら「他人の足をひっぱる」ことなく、「自分が努力する」といったことも含んでいるのではないだろうか。
他人が成功したら(心ではどう思っているかはしれないが)しっかり賛辞をし、失敗したらまたがんばればよいと励ます。そんな文化があることを米国・欧州で生活していて感じた。所得差、階級差が歴然と存在する中ではあるが、米国・欧州には「Maturity」があるようだ。
「Maturity」というが概念が日本社会に醸成されなかった背景として、「歴史的な共同体」の在り方に原因があろう。周知のことであるが、かつて日本の村落共同体は、村八分といった制度や共同農耕作業などを強いられた。「個人」対「個人」による社会というより、「個人」の概念が希薄な社会だったようだ(アカデミックな論述ではありません)。
そのような「歴史的な共同体」の延長線上にある「職場における擬似共同体」に、卑劣で下品な日本人がいる多くいるのも納得できる。
MBAホルダーに対して、もし、うらやましかったら、そして、自分もしたい、できると思ったら今日から毎日勉強してください。
成功した起業家に対して、もし、うらやましかったら、そして、自分もしたい、できると思ったらリスクを取って起業してください。
親が莫大な資産家に対して、もし、うらやましかったら、まあ、あきらめましょう。
「他人への嫉妬を他人にぶつけず、自分にぶつける」
僭越ですが、一人でもそんな人間が増える社会で生活したいと思っています。
第三舞台 雨上がりの夜空に
その話が鴻上さんのホームページに書かれている。もう10回くらい読んだのだが、いつ読んでも悲しい。泣いてしまう。
あの役者さんの舞台は3回ほどしか見ることができなかったが、いまでも表情が目に浮かぶ。ある芝居ではBGMにRCサクセションの「雨上がりの夜空に」が使われていた。
いまでも時々カラオケで「雨上がりの夜空に」を歌うが、つい涙ぐんでしまう。亡くなった役者さんに対しての涙というより、過ぎ去った自分の過去に対する哀愁の涙だが。
そんな気持ちにいまでもさせてくれるいい芝居で、いい役者さんだった。70年代全共闘の匂いを残し、人生のせつなさ、社会の矛盾を訴える中にも「俺たちに明日はある」的な前向きなものだった。
素直に前向きであることが許される時代だった。芝居を観終わった後、自分が違った地平に立っているように感じさせてくれた。
あれから20数年。「俺たちに明日はある」と思えるような牧歌的な時代はもう何年も前に終わってしまった。
電波の公共性
メディアで各種議論がされている、一連のライブドア関連の出来事においては、嫉妬としか思えない発言も、TVキャスター、コメンテーター、政治家、一部商法学者、新聞の論説委員からなされたと感じました。 小職、今回の件、大きく分けて6つの側面があると考えています。
1.資本市場のテクニカルな面‐CB、空売り、新株予約権、オプションバリュー等
2.商法、証券取引法、開示規制等の制度面
3.共同体のあり方(嫉妬社会)
4.世代間による思考のパラダイムの相違
5.メディアのあり方
6.メディアを含むビジネスモデル
小職が思うに、1から6がごっちゃまぜとなってしまっており(3、4はほとんど触れられていませんが)、いずれも表層的な分析しかされず、ワイドショーと化しております。TVは視聴率が取れ、新聞・雑誌は部数が掃け、広告が取れればよいからいいのでしょう。
このスタイルはこの事件に限らず、多くの場面で見られます。こんなスタイルのメディアを公共というのもなんだかね と思っています。公共にするなら、いっそ規制の名を借りた指導をしてもらいたいものです。公共のメディアは1つもいらないと思っておりますが。通信はインフラで公共性がありそうですが、通信にのるメディアに公共性は必要でしょうか。
むかしの政治家の言葉を借りますが「この程度の国民にこの程度の政治家」ならぬ「この程度の国民にこの程度のメディア」でしょう。
ちょっと時間がないので今回はこれまでにしますが、最後に仔細なことですが、メディアでおそらくあまり取り上げられていない視点を一つ。
「メディアの公共性をいうのなら、勤務している人の処遇も公務員並み(贈賄・収賄への罰則・給与水準など)にするべき」これは嫉妬ではありません。論理です。
以上
カナリヤ
きむらのサランチ。向かえの杜のバタライ。
茶房のお茶とせんべい。ル・プティニのロイヤルミルクティー。
DOXY・・・。すべてなくなりました。タイトル由来のひとつです。
西武鉄道
・西武鉄道の節税を、国税が脱税で動いていない段階で、脱税と報ずるメディアの嘆かわしいこと。
・有価証券報告書虚偽記載は、西武鉄道には限らない。訂正報告も多くの企業より提出されている。西武鉄道はスケープゴードでしかない。国税、監督官庁、東証も虚偽記載は何年も前からわかっていた。検察の真意は。
・例えば、10キロまでのスピード超過は本日まではOKだが、明日からはNG。そして、過去の10キロは遡って犯罪とする。ただし、9キロだった人はセーフ。裁量行政ならぬ、裁量検察。情緒的日本の検察。ルールは公正、公平、明確に。
・表面的に見れば、西武鉄道株上場廃止→グループ資産価値下落に伴い、みずほが回収モード、経営介入に入っただけのこと。
・ろくな努力もしない大衆が喜ぶような事件。嘆かわしい社会。
