【運命のドラフト会議】
2017年10月26日、東京都内のホテルで、ひとつの会議が行われました。
2017年度プロ野球新人選手選択会議、通称ドラフト会議です。
今年のドラフト会議は、ひとりの高校生に注目が集まっていました。
その名は、清宮幸太郎選手。早稲田実業高校の3年生で、
高校通算111本の史上最多記録保持者です。
彼にはなんと、ソフトバンク、阪神、楽天、巨人、日本ハム、ロッテ、ヤクルト
の7球団が競合で指名をして、
最終的にはくじ引きで日本ハムが交渉権を獲得しました。
このニュースは、多くのメディアで報道をしていましたから、ご存知の方も多いかと思います。
しかし、この清宮選手よりも1球団多い8球団から1位指名を受けた選手がいるんです。
それは1989年のドラフト会議でのこと、阪神、ロッテ、ヤクルト、横浜大洋、福岡ダイエー、
日本ハム、オリックス、近鉄の8球団から指名を受けた野茂英雄投手です。
そして抽選によって近鉄が交渉権を獲得し、入団することになるのでした。
【日本での活躍】
野茂投手は、1年目のシーズンから前評判に恥じない活躍をしました。
その投球フォームは独特で、体を後ろに捻って投げることから「トルネード」投法と呼ばれました。
このトルネード投法から投げられる球は、直球とフォークボールだけにもかかわらず、
三振のヤマを築き、「ドクターK」とも呼ばれるようになりました。
新人1年目の成績は、最多勝利・最優秀防御率・最多奪三振・最高勝率を獲得し投手4冠を独占するだけでなく、
MVP・ベストナイン・新人王に加えて、パリーグの投手では初となる沢村栄治賞も獲得しました。
MVP・新人王に加えて沢村賞を獲得したのは、前にも後にも野茂投手だけで、すばらしい活躍です。
野茂投手は2年目以降も快進撃を続けます。
新人の1990年から4年連続で最多勝・最多奪三振の同時獲得を実現しました。
この記録はいまだに破られていません。
さらに1991年のオールスターゲームでは、
先発投手として起用され、
6奪三振を記録しました(1990年代では最多)。
【近鉄退団、そしてメジャー入りへ】
5年連続での最多勝・最多奪三振を狙った1994年は、
シーズン途中で右肩痛のため戦列を離脱し、記録は途切れてしまいました。
この年のオフには、代理人交渉制度を巡って球団と対立し、
また監督との確執もあり、近鉄退団を決めました。
この時、野茂投手は球団から「任意引退」として扱われたため、
日本の他球団との契約を結ぶことができず、
活躍の場をアメリカのメジャーリーグに移すことを決断するのでした。
【アメリカでの活躍】
野茂投手は、1995年2月にアメリカメジャーリーグのロサンゼルス・ドジャースに入団します。
これは通常のメジャー契約ではなく、年俸も980万円
(近鉄での最終年俸は1億4000万円)のマイナー契約でした。
しかし5月のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦でメジャーデビューすると、快進撃が始まります。
1年目の成績は13勝6敗、防御率2.54、奪三振236(奪三振王)を記録して新人王を獲得し、
さらにチームの地区優勝に貢献しました。この年の野茂投手の人気は、日米双方で盛り上がり
「NOMOマニア」呼ばれる熱烈なファンを獲得しました。
2年目以降も活躍は続き、2年連続200奪三振を達成し、
9月にはノーヒットノーラン(無安打無得点)を記録しました。
しかし1997年からは故障との戦いになります。
この年の後半には右ひじに違和感があり、オフには手術に踏み切ります。
そして1998年以降は5球団を転々とします。
その間の2001年4月にはレッドソックスで2度目のノーヒットノーランも記録し、
この年は最多奪三振を獲得しました。
2002年には古巣ドジャースに移り2003年には3年ぶりの開幕投手にも指名され、
メジャー通算100勝を達成します。2004年には再び故障により活躍が減り、
2005年にタンパベイ・デビルレイズとマイナー契約を結んだ後は、
マイナー契約で数球団を転々として2008年に引退を決意しました。
【現役引退後から現在まで】
野茂投手は現役を引退すると、日本の複数球団で臨時コーチや解説者の仕事を行っています。
また、現役時代の2003年から、野球を志す若者のために野球を続ける環境を作ろうとして
社会人野球クラブ「NOMOベースボールクラブ」を設立しました。
今では数人の若者がこのクラブからプロ野球選手になっています。
先日、日本ハムの大谷選手がメジャー挑戦を表明しましたが、
野茂投手がメジャーリーグに行ったことで、日本人選手のメジャー挑戦が可能になったのです。
日本人選手のメジャーリーグでの活躍の影には、
パイオニアとしての野茂投手がいたことを覚えていてくださいましたら幸いです。