さ つ え い

さつえい 撮影 (松川 黎)光学的あるいは電磁的方法によって目的物を記録することで、露出または露光などともいわれる
普通写真、エックス線写真、電子顕微鏡写真、映画テレビジョン(この場合は撮像と呼ばれる)などにおいて重要な技術工程の1段階である
記録する媒体の感度に応じて、被写体(目的物)からの入射光を加減し、被写体の状態を忠実に記録しなければならない
そのために技術者は高度の熟練度を要求されるほか、多種類の感光材料、測光計器としての露出計などが用意されてある

さつえいしょ 撮影所 (松川 黎)映画の撮影・製作にあたる施設を集めた場所をさし、一般にスタジオ studio ともいう

映画が実写の範囲を出て、商品化されて組織的な製作が要求されるにいたって、各種の技術者が集団的に協力して製作にたずさわる工場が必要となって生まれたものである

製作に必要な芸術家や技術者を擁して映画の製作にあたっている撮影所と、施設の整備に必要な最小限の人員で、映画製作者に賃貸することを業としている貸スタジオとの2種があり、後者は独立プロの製作の盛んなフランスや日本にその例が多い

撮影 撮影所



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フィンガー5 ♪ 学園天国
キャロル ♪ ファンキー モンキー ベイビー
ベイ エフエム

映画の機能
映画はまず現代の社会におけるマス・コミュニケーションとして、新聞、ラジオ、テレビジョンとともに、きわめて重大な役割をもっている
まず映画は個人によって作られるものではなく、集団的操作の産物であり、その製作には過大な費用を必要とするから、そこには集団的意志が反映する

また映画は入場料を払う多数の観客によって観覧されなければ企業的に成立しないから、その観客の集団の意志を反映する

すなわちそれら社会の産物であるといっていい

そして社会は、その社会生活を安全に確保し、また、それを望ましい方向に導くために、社会の成立要素たる各人の最大公約数的な意志を尊重しつつ、映画を希望の生活様式の具体的表現として利用し、映画が生得にもっている有効な報道の手段を発揮させる

この場合、映画が一定のネガから、多数のポジを焼きつけ、同じフィルムを最大多数の観客に見せるということは、社会生活を統一するうえに、ひじょうに効果あるものと考えられる

同時にまた、全体主義国家や独裁者が映画を統制し、一つの意思によって国民を希望の方向に向けるという弊害も生ずる

この意味で、映画は、それが多数生産される国ほど、制度に奉仕する役割を帯びているということができる

映画はそれゆえ、あくまでもデモクラティックな製作方法をとるべきであって、この両刃の武器を善用することは、社会の指導的立場にあるもののつねに注意を要する点である

映画はこんにち、民衆の娯楽の代表的観覧物となっているが、映画が報道であると同時に芸術でもあるということは、マス・コミュニケーションとして、最も有力である一つの根拠になっている

なぜならば映画のイメージは現実の姿であり、しかも同時に理想的な姿とも見られるからである

観客はそこに自分の理想型を見る

ここに映画の大きな社会的影響の原動力がある

映画のいい影響も悪い影響も、ともに重大な社会問題である

このためにある国では検閲制度をしいているし、また別の国では映画界が自主的な審査機関を設けている

営利会社が観衆の弱点をねらって、社会に悪影響を与えるような映画を作る場合には、これもやむをえないことである

また営利会社が製作をしないような記録映画・教育映画・学術映画は、官庁や団体がこれを作って営利的な劇場以外の場所で上映することも多い

これは非劇場映画として、社会がみずから普及させなければならない

現在は劇場映画を上映する機会が圧倒的に多いし、娯楽によるマス・コミの威力は十分利用すべきであるが、非劇場映画の任務をこのために忘れてはならない

劇場映画であると非劇場映画であるとを問わず、できあがった映画は、上映されて初めて映画として本当に生きるわけであるが、その製作中に、観客の意志や社会の意志が製作者の 企画を通じて作品そのものに反映することはいうまでもない

これが映画の内的生活である

完成された映画は、上映されることによって外的生活にはいる

この場合、映画が観客との協同作業によって、初めて映画としての機能を発揮することは、注目しなければならない

クローズ・アップやカット・バックが生きるためには、観客がそれらを総合しうる心理的操作の能力を必要とする

また観客のほうに、イメージに対処してそれを理解する知識や教養がなければならない

こういう点に関して、その映画に対する直接の批判活動なり、一般的な文化活動が有効な働きかけをするのである

そしてここに映画を中心とした生活的な一種のふんい気が醸成される

これが映画の外的生活である

このようにして、映画は社会生活の中に生きながら、その価値を決定され、これがつぎの映画製作の企画にまで大きな影響を与える

ここに再び映画の内的生活が始まる

この一回転は、つねに同一の出発点にはかえらず、時とともにつねに高い位置にすすむのが当然である

もちろん、映画は監督者によって統一的に作られるものであり、その監督者の独創はいうまでもないとしても、上記のような映画の社会生活は、むしろ映画製作の根本を決定するものであり、映画監督者もこの認識なしには有意義な芸術作品は作れないのである

(飯島 正)

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金目定食(築地市場)映画の本質…
【映画の本質、諸芸術との関係】 (飯島 正)

映画は初め現実の複製による記録と報道の手段であった
これは19世紀後半の科学万能の思想から生まれた文明の利器であり、これが実利的なものと考えられることも当然であった
また同時にこれは珍奇な見世物であった
しかし、この両者の要素が合体し、その目的にそうために、作り方が洗練されるにつれて、実現と芸術の両面が一つのものとして発達することは、他のたとえば工芸美術などと同じことである
現在でもこの両者の要素が、その比重こそ違え、おのおのの映画の中に同時に存在することは、映画の最もいちじるしい特質である
それゆえ、映画史に見られる無声映画末期の前衛映画の運動は、それ自身(すなわち黒白無声のイメージのみによる表現)としては、芸術の実験としての大なる価値ももつが、ひろく映画というものを考えるときには、本質的な方向とはいえない
しかもなお、映画の表現手段の根本原則ということを考える場合、映画がそれによってしか成立できない純粋な要素というものは、明らかにする必要はある
それはイメージを主とし、音声の要素を加えた〈モンタージュ〉である
報道や記録の映画も劇映画も、これなしには成立しない
そして映画の芸術の基礎もここにある
それは実用の言語から文学という芸術が発生したのと同様に考えていい
はじめ映画は単なる写真的複製であったから、芸術とは認められなかったが、モンタージュによって複製の〈動く写真〉自身にはない新しい現実がスクリーンに映し出されることが確認され、ここに複製的再現ではない表現という芸術の条件が確かめられるにいたった
しかし機械的操作による複製を、そのまま材料としているという点で、映画と他の多くの芸術との間には大なる差異がある
現実そのものの助けを借りているからである
しかし逆の立場からいえば、現実を芸術化するという独自の性質をもつともいえるのである
またここに宣伝の手段としての効用も大であり、真実を表現するはずの映画が、かえって真実をかくす作用もする
♪ カモガワ クリスタル
薔薇⇔本
舞浜イクスピアリベイ エフエム
anna@ 
映画をその根本的な成立条件においてのみ考えれば、イメージのモンタージュということになってしまうが、この考えを追求して作られた前衛映画が映画の全部ではないことは前述したとおりである
ところが他方において、映画はいろいろな芸術の集大成であり、寄せあつめである、すなわちこれは総合芸術であるという見方もある
これは主として一般人の観念である
確かに映画には他のいろいろな芸術の要素が数多くふくまれている
しかしそれが単なる寄せあつめではなく、統一的な原則があって、それによって、各要素は映画を成立させるために、その質を変化させられているということが確認されている以上、これは単なる寄せあつめ的総合芸術とはいえない
だが、他の芸術と映画との関係がひじょうに密接であり、また複雑であることは事実で、その事実を知ることは、映画の特質を明らかにするうえにも有益である
ミラクル
anna@ 
まず写真は映画の母胎であるから、映画が〈動く写真〉としての写真の性質を最初から有していることはいうまでもないが、〈動く〉という点で、一般のスチール写真とはちがうし、一つ一つの〈動く写真〉(ショット)がそのまま映画ではなく、モンタージュの操作がなければ、映画は成立しないのであるから、いわゆる芸術写真と映画とは別物である

むしろ映画は芸術写真ではない〈真を写すもの〉を素材としている

したがって、映画と美術との関係も、だいたあこの点から考えられなければならない

無声映画時代に、映画のショットの美術的な美しさをいうことが、相当問題となったことがあるが、映画における単に絵画的な美しさというものは、ややもすれば独立に見られやすい

ところが映画において絵画的な美しさが問題となるとすれば、とくに色彩映画のこんにちでは、これは無声映画時代とはちがった重要性をもつのだが、いずれにしても、それがショットとショットとの連続の時間的・構図的関係に考えられなければ意味をなさない

また映画の成立条件を、建築に比することも、従来抽象的に考えられてきた

これは、実物の建築を映画に写すということではなく、建築用語であるフランス語の〈モンタージュ〉が映画用語になった事実を見てもわかるように、ショットの断片は、そのイメージの性質をそのままに保有しながら、建築物における材料と同様な手続で組み立てられた結果、一個の作品を形成し、それぞれが元来もっていなかった総合的な別の新しい性質をそこに現わす

この事情から映画と建築との関係が考えあわせられることは、映画の理解にとって最も大事なことである

映画はまた、一定の時間内に一定の場所において映写される見世物である以上、そして劇映画の場合、人工的なセットのなかで、俳優が人物にふんして演技をする以上、演劇と密接な関係があることはいうまでもない

だが映画が複製の写真であり、舞台は本物であるという点で、まず根本的な差異がある

つぎに映画は、ひろい意味において、現実を実写するものであるが、舞台はむしろすべて人工的である

最後に、映画は時間的・空間的にいくらでも飛躍できるが、演劇は、一定の時間内の一定の場所にくぎづけとなっている

俳優は映画と演劇の差を心得ているかぎり、両者共通であって少しもさしつかえはないが、映画の演技の非連続性と舞台の演技の連続性とは、その根本的な違いであり、映画の演技はつねに自然物の中において、極言すれば、自然物と同等の資格で映画に登場するものであることを忘れてはならない

また映画においては、観客が一定のモンタージュが行われた映画作品に対して、それぞれの心理作用に応じて、かなり主観的な反応を示すけれども、演劇では、俳優の演技はつねに観客の即時的な反応に反応して、その場その場における演劇的ふんい気を創造していく

ここにも根本的な相違がある

映画と音楽との関係は、むしろ演劇以上に密接である

音楽自体が現実音として映画のなかにはいる場合、また伴奏音楽としてそれぞれがもちいられる場合、この二つは普通考えられる映画と音楽との関係であるが、これ以外に、時間的要素がともに根本的な重要性をもつという点で、この両者には本質的な共通点がある

すなわち、映画のリズムの問題は、音楽的であると同時に、映画の死活を快する契機である

映画のリズムは通例3種あるが、その1は、ショットにおける人物や物体の動きのリズム、その2、モンタージュの際のショットとショットとの連続におけるリズム、その3階は、筋の中の一事件によって統一されたショットの段落(すなわちシークェンス)ごとが連続する場合におけるリズムである

この3種のリズムが総合されることによって、映画のリズムが成立するのであるが、これに音声のリズムがさらに総合的に加えられることはいうまでもない

だが、この視覚的・聴覚的リズムの性質を決定するものは、もちろん主題であり劇筋である

普通、映画は文学と密接な関係があるものと思われているし、事実上、小説や戯曲の映画化が、現行の映画の半数以上をしめているのであるから、当然文学は映画を媒介として、単なる筋書以上のものをスクリーンに現わすにはちがいないが、もともと言葉の芸術である文学とイメージを主とする映画とでは、その表現が異質のものであることは当然である

しかし、トーキーはせりふを重大な要素としているので、せりふによる文学的表現は、映画においてもりっぱに行いうるし、せりふを重大視した映画もないわけではないが、イメージ自体を一つの象形文字の単位的なものと見る見方もある

映画を新しい言葉とみなす説もここに理由がある

また映画のシナリオを、文学の一つのジャンルと考える見方は、それが言葉によってつづられた文章またはせりふであるかぎり、一応成立するものともいえるのだが、それはシナリオを映画の実作品とは独立のものと見た場合のことで、現在のシナリオはまず映画製作の設計図であって、映画の文学としての価値は、せりふ以外にはもたないし、そのせりふもイメージと相まって初めて芸術的価値をもつように考えられているのであるから、これを文学として鑑賞することは困難である

むしろこれは可能性の問題であり、作者の問題である

(飯島 正)











