予定していた事をそのまま口にしただけだった。


「海へ行こう!」


さすがに妙齢の杉野智子に「目が小さいね」とは言えずに


心にしまって置いたようだが


そのいつもの小さい目が


乱暴な筆書きのような一本の線に見える満面の笑顔でこう言ってきた。


いつ行こうとか、どこの海に行こうとか何も決めていない。


ただ長野県民の「海へ行こう!」はほとんど新潟の海だ。


静岡や神奈川、愛知まで足を伸ばせば太平洋側の海が楽しめるが時間がかかる。


早朝に出発して一日中遊んで


その疲れた体で中央自動車道を帰ってくる事は


飯田和浩の年齢では荷が重かった。


新潟へはその半分の時間で海に出る事が出来る。


太平洋側に比べて海水浴客が少ないのも


新潟の海へ行く理由の一つでもある。


さらに何年にも渡り新潟へ行き続けていくうちに


お決まりのコースも出来つつあった。


松本から糸魚川経由で上越へ


または長野道から上信越自動車道を使って上越から糸魚川へ


いずれにしても上越市にある有名なラーメン店や刺身が美味しいお店


能生にあるカニが食べられる道の駅などが


大事なチェックポイントとなるため


海で遊ぶ事より食べる事の方に重きを置いていると


思われても仕方ないコース設定ではあった。


昼時のタイミングでどこの食べ物屋に入るか。


そうなると現在の時間が重要になってくる。


DVDの箱やケースが無造作に置かれたテレビ台の上で


女子アナウンサーが最新ニュースを読んでいた。


その画面の右上に目をやる。


9時45分。


今からだと高速を使えば昼過ぎには上越のラーメン屋の行列に並ぶ事が出来る。


この時期しかやっていない【つけ麺】が目当てだから


多少の行列はしょうがないと飯田は考えた。


「じゃ行こうか」


財布と携帯と車の鍵をポケットに突っ込んで


夏は暑くて冬は寒いかなり住みづらい部屋を出た。


駐車場まで歩く途中おもむろに杉野智子が言った。


「今日は白馬経由で行こう!」


何か考えがあるのか、ただの思いつきなのか


まぶしそうに目を細めているその表情からは読み取れなかった。


「えっ?高速で行かないとあごやの昼営業に間に合わないよ?」


「何が何でも白馬の道の駅でソフトクリームが食べたいのだ」


そう言ってニヤリと口角を上げながら上目使いで飯田の顔を凝視した。


【何でも知っている】


飯田は杉野の驚異的な≪女の勘≫を幾度となく体感してきた。


それはまさに盗聴器や監視カメラがついているのではないかと


疑うほどの精度だった。


その度にケンカになったり冷や汗をかいたりしたが


なぜだか致命的な別れ話までには進展しなかった。


そういう話のきっかけの時に必ずする顔。


それが今の杉野の顔だと飯田は思った。