椋尾氏は昭和13年1月1日うまれ。もともとは油絵の世界に入りたかったのですが、友達にさそわれて虫プロに入社します。「遅くまでアニメの背景を描いて、自分の家に帰ったら油絵を描くという毎日」だったようです。最初は迷っていたようですがだんだんアニメ美術に傾倒していきます。その理由として「ひとことで言えば、フッきれたんですね。まず生活があり、そのつぎに絵をかけると、おもうようになったんです。ですからとにもかくにも絵の具という道具を使った仕事をし、それでメシが食えるのなら、これは喜ぶべきことだと理解したんです。そうおもってあらためてアニメ背景の仕事に向かうと、新しいおもしろさが発見できるんです。」(アニメージュ81年3月号)と言っています。
一年して虫プロを退社、そのあとは設立したばかりの東京ムービーに入社します。そしてそこに2年居たあと半藤氏(虫プロ時代の同僚)と共に仕事をやめます。
フリーとなり、仕事は半藤氏の家で6畳一間のところでこなしていきます。二人で人作品に200枚ほどの絵を描いていきます。量を描いていくうちに質が上がったようです。そして最初はタツノコプロの作品を引き受け、その一年後、椋尾氏はひとり立ちしムクオスタジオ代表となります。その当時はまだ「背景」といわれ、「ジャングル大帝」から「美術」という呼びな二なりました。
作品としては銀河鉄道999。原作のよさもあるし、りんたろう氏の演出のよさもあります。そして椋尾氏の作るリアリティある背景もそうだと思います。
キャプテンハーロックからSFの設定をはじめたのですが、なかなかSFの世界のイメージがつかめなかったようです。ただ、「演出のりんたろう氏が強烈なイメージをもっていましたから、それにあわせることによって、自分のイメージをずーっと広げていけたんです。」と言っています。また「名作でも、SFでも造形の仕方というものは同じなんじゃないだろうか」と言っています。「SFとか方向がちがっているだけで、人間が生活しているという実在、にごく自然にふつうの人をそこに溶け込ませられるようなイメージ作りをしていかなければダメなんじゃないかなと思う」

空想の世界でもそこには人間がいます。SFでも日常物でもそうです。「実在感」が椋尾氏の絵のポイントかもしれません。

巨大な夕日に向かって、未来都市の空へのレールから飛び立つ999にしても、武道谷のアジトにしてもリアルな感じがあったような気がします。

それからがんばれ元気の町。これは田舎の素朴さをだしたかったようです。
昔すんでいた町などを思い出しながら、描いたようです。

あとはセロ引きのゴーシュ。高畑氏と組んだ作品ですがこの背景もすばらしいものがありました。そして「火の鳥・鳳凰編」これはりんたろう氏と組んだものです。
これも古都の雰囲気が良かったと思います。
作品の持つ世界観、雰囲気を視聴者にうまく伝える事の出来た美術、それが椋尾氏
だったと思います。