GoGoBoy辞めてDJになった(3)
PART 3 / 14そして、自分の頭の中を説明するとき、奇妙なことに、言葉よりも料理の方がうまく説明できることがある。たとえば、レタス、トマト、生のバジル、鶏肉、人参ドレッシング。それぞれの食材には、まったく違う味、香り、食感、個性がある。レタスについて説明することはできる。トマトがどんな味かも説明できる。バジルがどう香るか。鶏肉が何を加えているのか。人参ドレッシングの甘味と酸味がどんな役割を果たしているのか。一つひとつなら、言葉にできる。でも、それらを一つずつ説明したところで、すべてが同時に口の中に存在した瞬間に生まれる「調和」を説明したことにはならない。その調和は、レタスではない。トマトでもない。バジルでも、鶏肉でも、人参ドレッシングでもない。それらの間に生まれる関係の中にしか、その調和は存在しない。そして、それが驚くほど、僕自身が感じている「僕の頭の中」に近いのだ。僕は、何も考えずに料理をしているのではない。僕にとって料理とは、自分の脳内を外の世界へ取り出す行為である。僕は、一つひとつの食材が持つ「音響」を聴きながら、少しずつ一つの和音を育てている。レタスにはレタスの音がある。トマトにはトマトの音がある。バジルにも、鶏肉にも、人参ドレッシングにも、それぞれ固有の声がある。味。香り。温度。食感。僕には、それらがそれぞれ異なる周波数、倍音、音色、ダイナミクスのように感じられることがある。僕は、それらをただ混ぜているわけではない。どの声をどのくらい響かせるのか。何を別の音の下へ置くのか。何をほんの一瞬だけ前へ出すのか。二つ、三つの要素が重なったとき、そこからどんな新しい倍音が生まれるのか。それを聴いている。食材を一つ重ねるたびに、僕は一つの和音を育てている。それが、僕にとって料理の楽しさである。だから、他の人にはほんの小さな味の違いにしか思えないことでも、僕には深く響くことがある。自分が大切に育てていた和音の中で、一つの重要な声がマスキングされたり、別の味に覆い尽くされたり、本来響くべき姿で響けなくなったりすると、僕は本当に悲しくなり、落ち込むことがある。