どうでもいい話 -13ページ目

苗字について考える

二月に入りました。如月といったほうが格好つきますね。そして、自分の苗字が如月だったら、おそらくもっと違う人生を歩んでいたのだろうと思いました。

それは僕の苗字がえらく簡単だからです。小学一年生で書ける苗字なので、重々しい苗字や洒脱した苗字に憧れるのです。

「如月」…とてもお洒落じゃないですか? 「長宗我部」…歴史を感じませんか?

数ある苗字のなかで、僕がもっとも好ましいと思うものはこれです。

「里見」

もし自分の苗字が「里見」であれば、もうすこしお洒落さんになっていたと思います。毎日2回はお風呂にはいったでしょうし、あと2mmほどまつげも長かったんじゃないかな。

なぜこの苗字がお気に入りかと言いますと…それは自分でもよくわからないのですが、南総里見八犬伝と、信長の野望の影響ではないかと思います。知り合いに里見はいませんので。

云々と述べましたが、自分の苗字が嫌いなわけではないんですよ。むしろ、めんどうくさがりの僕にはぴったりです。だって苗字のサインに1秒もかからないんですから。

日本には様々な苗字がありますよね。同じ漢字でも読み方が異なることもあるし、違う漢字で同じ読みなものもあります。

僕は大学3年生のとき、学生実験というものを行っていたのですが、15人程度のグループに分かれて授業をします。僕らのグループでは少し難読な苗字の人がいて、指導教官は出欠をとる際必ずつまっていました。おもな苗字はこういったものです。

「柳瀬」「四日」「吉年」「刑部」

まったく読めないということはないでしょうが、読み方に自信がもてないですよね。

どうぞ考えてみてください。正解された方には、特別なプレゼントがありますよ。

なんと僕が二月の運勢を占って差し上げます。最高でしょう? ……最高ですかー?

とにかくそういうことです。また会う日まで。

自然博士になりたい僕は

ここ3年ほど前から抱いている僕の野望。それは自然博士になることです。

自然博士とは、植物、動物、星座など身近な自然について詳しい人のことです。僕が勝手に定義したものですけれど。

そういう人に憧憬を感じる年頃なのです。

例えば、誰かと道を歩いていて「やあマツバギクが綺麗に咲いているね」なんて言えるんですよ? 「やあ今日のギョシャ座はこの冬一番だね」なんて言えるんですよ? 「やあ今日の君の笑顔は巻層雲みたいに素敵だね」なんて言えるんですよ?

僕は北斗七星すら探せない人ですので、ものすごくうらやましい能力です。僕が分かるのはオリオン座だけ。しかし人一倍宇宙にロマンを感じているのです。ビッグバンだの定常宇宙論だのインフレーション理論だの。しかし、そういうことってあまりウケがよくない気がします。なんか妙にスノッブじゃないですか。

結局何が言いたいかというと「身近なことを知っているほうが役に立つのではないか」ということです。例えば先ほどの星についての話でもそうです。こまごまとした理屈を知っているより、星座を判別できるほうがスマートじゃないですか?

その①
「今日の星は綺麗だね。星って言うのはコアで核融合反応を繰り返しているんだよ。そのエネルギーで恒星は光っているのさ。原始宇宙には水素とヘリウムしかなかったんだよ。それが集まってきて、大きなカタマリになって核融合反応を始めたのさ。反応の原材料である水素がなくなると、次はヘリウムの核融合反応、リチウムの…と言う具合にどんどん大きな原子量を持つ元素が生み出されていったんだ。でもそれらの反応では原子番号26、つまり鉄までしか合成できなかったと言われているんだ。じゃあどのようにしてそれ以上の元素ができたかと言うと…」
「うるさいなぁ、私静かに星を見たいの」

その②
「今日の星は綺麗だね。ああ、オリオン座がよく見える」
「え、どれどれ?」
「ほら、あの竜の巣みたいな雲の隣にある砂時計のような星座だよ」
「あ、あれね。糸巻きみたいなやつね」
「そうそう。どうしてオリオン座が冬にしか見られないか知っているかい? それは夏には彼を殺したさそり座が出てくるからなんだよ」
「ふーん。なんだかコミカルね」

どうですか? ②の話しぶりのほうに好感がもてませんか? そういうことです。

飛んでいる鳥を見たときに、飛ぶ原理が言えるよりも鳥の種類が言えるほうがよくないですか? そういうことなのです。

類語辞典の次に植物図鑑と動物図鑑が欲しい年頃です。要らない図鑑があれば私めが引き取りますのでどうぞよろしく。

またトラックバックです

今日もトラックバックさせていただきます。まあまあ、たまには楽をさせてくださいよ。誰に向かって主張しているのか分かりませんが。

引き続きこぱんださんのグループディスカッションのテーマについてです。二日続けてありがとうございます。シェイシェイ。バクシーシ。

今回のテーマは「いじめについて考えてください」です。

これは僕の思い込みなのかもしれませんが、いじめという言葉、一時期ほど聞かれなくなりましたね。もう何年前になるか忘れましたが、学生が同級生に体育館のマットでくるまれて亡くなった事件がありました。この事件以来、いじめという言葉が多用されるようになったと記憶しています。

亡くなった方が僕と同じ名前だったからよく覚えています。

その事件からしばらくいじめという言葉がはやった気がします。そして、切れる17歳だ、セクハラだ、学級崩壊だ、と流行り廃れがあり、今は「残念!」となっています。ああちょっと違うか。

ということで、いじめについて言及させていただきます。

いじめの定義は「大勢が一人に対し精神的、肉体的苦痛を与える」とします。さて、人が生きていくうえでいさかいはつきものです。ならばいじめもしかたないものでしょうか? 他人といさかいを起こしやすい人はいるものです。だから仕方がない場合もあるのでしょうか? うむ…。上記した定義ではやむをえない場合もあるのかもしれませんね。

しかし、実際のいじめの構造はもう少し複雑で、流行りに似ています。みんながやっているから、自分の意義に反してもやる。そうしなくては乗り遅れる。つまり、その子をいじめなくては自分がいじめられる、という強迫観念から加害行動に加わる人もいるということです。

そしてもうひとつ重要なのは、行動がエスカレートしていくことです。人間はもともと残酷な生き物で、特殊な環境ではその本能が理性をつきはなして暴走するそうです。そのため、イラク民間人を米兵が虐待するという事件も起こりました。圧倒的優位に立っていると、その立場が普通で、自分より下のものがいることが当たり前に思えてくるのでしょう。いじめも同じです。

いじめの場合は、いじめられていない人は全て上層部という構図ができます。ここで重要なのは「いじめられていない人」には「傍観者」も加わるということです。ただ周りで見ているだけでも、自分が優位にいる気がしてきます。最悪の場合加害者パーティーに加わることもあります。

ここが一番の問題だと僕は思います。

その人になんらかの悪意を抱いて、争いごとを起こすのは問題ありません。それは個々人の意思ですので、当事者間で解決すべきことです。しかし被害者に対し好感、もしくはニュートラルな関係を築いていた人が、いじめに加わることがありますよね。これはその人の意思ではなく、雰囲気がさせることです。

そういう状況におちいったとき、如何にして自制心を保つか、というのがいじめ解決の課題ではないでしょうか。人に流されず、状況にながされず。


かくいうものの、人間雰囲気には弱いものです。最近では「雰囲気」というより「いきおい」と言ったほうが分かりよいでしょう。しかし、僕は断然「アトモスフィアー」を勧めます。字面からもやもやした感じを受けます。

それにしゃべるとかっこいいです。例えば阪神が優勝したとき、道頓堀に飛び込む人がいますよね。さてその人がずぶぬれになって岸から上がってきました。そのとき彼はなんと言いましたか?

1.「飛べ飛べ、いう雰囲気やったからな」
2.「いきおいで飛んだったわ!」
3.「アトモスフィアーがそうさせたのさ」






結果発表。
1を選んだ人は、少し控え目でほんわかしたタイプ。
2を選んだ人は、社交的で現代感覚に優れるタイプ。
3を選んだ人は、移り気な甘えん坊タイプ。

どうでしたか? あてはまりましたか? かりに当てはまったとしたら、それはまぐれです。そして3番の結果は、昨日僕自身がやった心理テストの結果です。

トラックバックです。

今日は特に書くこともない(テーマを探す気力がない)ので、こぱんださんからお題を頂戴して書くことにします。というわけで一方的に、感謝の意を表したいと思います。どうもありがとうございます。サンキュー。メルシー。

「砂漠に不時着した飛行機の乗員、乗客10人のうち、7人しか救助できない。残りの3名誰を砂漠に残して帰るかを決定しプレゼンテーションせよ」

グループディスカッションでのテーマだそうです。こいつは難問ですね。ただこれだけだと境界条件があいまいですので、まずテーマの条件を決められたそうです。それは

・残された3名がその後助かる可能性は0。
・乗客乗員10名の男女、年齢構成は各自が決める。


というものだそうです。

グループディスカッションって、個人がどのように論理を展開するだとか、意見をまとめる能力があるか、などを見るものであって、おそらくこの問題に正解はないんですよね。僕はついつい「なにか解決策があるはずだ」と思ってしまうたちですので、苦手です。

だから僕が最初に思いついた回答はこうです。

「実は不時着のショックで3人は亡くなっていたので、生き残った7人を救助すればいい」

とんちじゃないんだから…。

でも「10人の乗客がいる」とあるだけで、「生存者が10人いる」ではないので間違いじゃないですよね。生死には触れていません。そうです、最初からこの飛行機には10人しかのっておらず、生存したのは7人だったのです。

すいません。でも問題を茶化しているつもりではありませんよ。第一感として本当にそう思いました。

ようし。では普通に考えますかね。

でもこの2番目の条件がひっかかります。どうしよう? 個々人のプロファイルを自分で勝手に決めていいのなら、どんな解釈でもできますよね。例えばこんな人もいるかもしれない。

 飛行機は無事に不時着した。なにもない砂漠に放り出された10人の現代人は、自分の運命の車輪がこれからどう回っていくのか、絶望と奇跡を信じる気持ちがいりみだれた面持ちで互いを見合った。誰でもそうであろう。
しかし松井は違った。彼はサウジアラビアからケープタウンに向かう旅行の途中だった。人生最後になるであろう旅の途中だった。7年間勤めていた会社は先月辞めたし、一人暮らしをしていた舞浜のアパートには遺書もおいてきた。残っているのは奈々と初めて出会ったケープタウンの港で、全てを終える予定だけだった。
 だから誰よりも冷静だった。
 遠くに羽音が聞こえる。その音は徐々に大きく、太くなり、みなも気づき始めた。砂丘の向こうにかすかに影が見える。蜃気楼とはおもえない。
それは軍用のジャイロだった。さっきまで呆然と立ち尽くしていた旅客の一人が、堰が切れたかのように走り出し、上着を脱いでぐるぐるとまわした。他の人々もあわててそれに続いた。それに気づいたのかヘリコプターはくるりと方向を変え、砂埃をたてながら着陸した。いっせいに歓声があがる。
 すべてが幸運のもとに進むかと思われた。
 しかし、ジャイロの乗組員は驚くべき死刑宣告をした。
 乗れるのは7人。それが限界だという。人々は再び顔を見合わせた。誰も自分が助かりたいのだ。1番に上着を脱いで走り出した男の目が、松井と合った。松井は美しく笑っていた。
「I stay. 僕は残るよ」


すいません無意味に長くなりました。そういう人が偶然に三人いたら…問題ないですね。かならずしも人間すべてが生きたいわけではないということです。それでどうでしょう?

うむ…おそらく皆様方の了承は得られそうにないようですね。なら「生存者が10名。そして乗客はみんなバカンスであって、絶対死にたくはない。乗員も死にたくはない」という条件を増やしますか。こんな制約を加えると論点がずれるかもしれませんが。

…ああ急に難しい。禅問答ですねこれは。でもまだ抜け道があります。みんな死にたくはないだけで、どうしても死んでしまう状況もあるかもしれません。つまり、明日をも知れぬ状態で、救助が来る前に3人死んでしまった、とか。または前提条件の穴を抜けましょう。救助にはかならず人が来ますよね。そこで3人入れ替わればいい。ヘリにしろジープにしろ。救助の人が物資をたくさんもって入れ替われば、生き残る確立が0ではないでしょう。おそらくこの前提は乗客乗員に対してのものですから。

いい加減辟易されそうなのでこの辺でやめておきます。すいません。天邪鬼なんです。

しかし、こぱんださんのディスカッションの際は「全員男だったら、殴り合えばいい」みたいな意見もあったようです。なら僕の「~だったら」的な意見もいいのかな、と思う今日この頃でした。

しかし、こういう無邪気なことを考えるのは頭の運動になっていいですね。なぜ無邪気かって? そりゃあ普通の感覚なら「誰を犠牲にするか」よりも「どうすればみんな助かるか」を考えるからです。

以上、まとめ。「7人しか生き残っていない状況だったら、助ければいい」
僕の参考にならない意見でした。

戯曲風にはじめます

「失敗に学ぶか、成功に学ぶか、それが問題だ」

最近思うことです。書店でライブドアの堀江社長の書いた本を、見つけてからのことです。確か「100億かせぐメール術」というタイトルだったと思います。

そこで疑問提起。彼はまぎれもなく成功者です。成功者の著した本を読んで得られるものは、成功から学んだ知恵でしょう。もしかしたら特盛りつゆだくの苦労話で埋め尽くされているのかもしれませんけれど。読んでいないので正確ではありません。

ここで成功に学ぶとは「あのときこうしたから成功した」、という知識だと定義します。

逆に失敗に学ぶとは「あのときこうしたから失敗した」、という訓戒めいたものだとします。


実はここに、繁栄の鍵が隠されていたのです。なんと国民総上流という未来が導けるのです。

成功に学んだとすると、おそらく成功するのでしょう。そういう趣旨で書かれた本なのでしょうから。ならその人はその成功から、また成功に学ぶことができますよね。そして次の成功からまた学び…。つまり一度成功した人は、成功し続けることになります。

逆に失敗した人は…天のみぞ知る、です。同じ失敗は繰り返さないものの、別の失敗があるかもしれないし、成功があるかもしれない。

…ということは、失敗者の絶対数というものは最終的に0になりそうですね。成功した人は失敗しないし、失敗者は何度失敗しようと一度成功すれば成功し続けるわけですから、漸近的に国民総上流になるでしょう。Q.E.D.めでたしめでたし。

冗談です。

ふと数学的帰納法のやくざな問題(おわんにご飯粒はいくらでものる等)を思い出したので、あだな証明をやってみました。あまり証明形式にのっとってはいませんけれど。

「何が間違っているか分からないけれど、間違っていることは分かる」という問題に出会うといらいらしつつも、妙にはりきってしまいませんか? よーし解いてやろう、と。

これはたいした問題じゃないし、穴もたくさんありますが、考案した僕はしばらく悩みました。まぬけな話です。

上記したものは遊びですが、この方法で巧みなロジックを使い、非常に抜け道が見つかりにくい命題、しかも生命にかかわるようなものが出来れば、簡単に人をだませる気がして怖いですね。そういう新興宗教団体が出来るかもしれません。その名も「おわんの宇宙」。

話は変わるのですが、フォトンベルトって知っていますか? 僕は大晦日のTVタックルではじめて知りました。なんでも銀河系にはフォトンベルトというエネルギーの塊があって、太陽系はそのエネルギー帯を2300万年(だったかな)周期で通過しているというものです。そして2013年(だったかな)には、太陽系がすっぽりとフォトンベルトの中に入ってしまうそうです。そしてそのとき地球は電子レンジの中に入ったような状況になるそうです。現在起きている天変地異も、フォトンベルトに近づいているためで、これからどんどん異常気象に見舞われるそうです。

この話を信じるかどうかは別として、人は科学的なものに弱いですね。なきにしもあらず、じゃないですか。ノストラダムスの予言には科学的根拠がありませんでしたけれど、この話はフォトンベルトというもっともらしい理論を出しています。正直言って、僕は少し不安になりました。

そんなエネルギー帯がいつまでも同じところにとどまっているのか? あったとしても銀河系の動きと一緒に回るので相対距離は縮まらないのでは? という反論がありましたが、それは誰にも証明できないものですよね。地磁気だってエネルギー帯といえます。そしてそれは昔から地球にあったものです。いつまでも同じところにね。

結局なにがいいたいかというと、僕が心配性ってことです。

昨日のブログで情報の話をしましたが、それも心配性からくる用心さなのです。100%ないとは言い切れないじゃないですか。

今日はこうして、皆様方を少し不安にさせて無責任に締めたいと思います。

ふふふ…。