冥府の町
  
  茂を通せんぼしている鬼の管理人は困った顔をして、
「だからですね、亡くなった月によってお住まいになれる場所は割振りされているんです。そして他の月の方の町には、行けないルールになっいるんですよ。皆さん、それで納得していただいてるんです」
  身長3メートルを優に超える体を低く折り曲げて茂に釈明した。
「ここは一時的な待機所でしてね、輪廻転生までの。だからあなたも、特に問題がない方なので、遠からず現世にですね」
  今まで、生きていたころ、茂はどんな時にでも誰にでも、従順な男だった。
  絶対に逆らわず、平身低頭の人生を送ってきた。
  陰口を叩かれていたことも知っていたが、それが自分の処世術なのだと自らに言い聞かせてきたのだ。
  残念なことに、それがいつの間にかストレスになっていたようだ。
  四十四歳の若さで、現世を去ることとなってしまった。
(人生百歳の時代に、その半分までもたなかった)
  だが、悔しかったのはそのことではない。
  一年前、先だった母の死に目に逢えなかった。
  そのことだけが彼にとって深い心残りとなっていたのだ。
「ひとめだけでいい、母に会って、謝りたいだけなんです。お願いです、母は三月に去年の三月に亡くなりました。三月っていったら、隣でしょ?二月の」
  鬼はますます困惑の表情を深め、
「あ、あのですね、隣っていっても、人間界の隣町みたいなわけではないんですよ。あたしだってね、自由に行き来できるわけじゃないんですから」
  溜息混じりに茂を説得した。
「それに、もう一年も前でしょ?もうとっくに転生されたと思いますよ。ねえ、諦めてください。あたしも忙しいんで、これで失礼……」
  立ち去ろうとした鬼の腰巻を掴んで、茂はまたもやいい縋った。
「待ってください」
「あなたもしつこいですねえ、ルールってもんがね」
「もし、もし母がもう生まれ変わっていなくなってるというのなら、その時は諦めます。だから、確認だけでも、していただけないでしょうか、お願いします、お願いします!」
  その態度には、ある種の執念のようなものが感じられ、さすがの鬼もたじたじとなった。
「そ、そこまで言われたんじゃ、ねえ……」
「お願いします、お願いします!」
  太い剛毛の眉の両端を下げ、ほとほと困り果てた顔つきの鬼だったが、仕方なさそうに頷き、
「じやあ、待っててください。時間かかりますからね、その点は考慮してくださいよ」
  と去っていった。
  
  幾ら待っても、あの鬼はやってこなかった。
  それでも茂は、人の群れと離れ、鬼と約束した場所で佇んでいた。
  この街には、時間の流れというものがないのだろうか。
  いつも、いつまでも、夕暮れ時か明け方のような空の色をしている。
  日が昇らなければ、月明かりを見ることもない。
  星影もなく、雲もなく。
  遠景は山並のようにも見えるが、本物の山なのかどうかもわからない。
  なんだか、灰色の壁に山の絵を描いたのように、平べったく見えなくもない。
  茂は風景を見るのも空を眺めるのにもすぐに飽きてしまったが、 今度は足元を見詰めてじっとしていた。
  他の者たちは会話を楽しんでいる。
  きっと、死を受け入れて次への生を期待しているんだろう、と茂は思った。だが、
「生まれた時には、前回の人生のことなんて何一つ覚えていないんだ。転生なんてものは、あってもなくてもおんなじじゃないか」
  だとしたら、また今までと同じ繰り返しをしてしまうかもしれない。
  コメツキバッタのように、ただひたすら頭を下げる繰り返し。
  母が危篤だというのに、上司に逆らえず仕事を終わらせたために、会えずじまいだった。
「だったら、もう生まれ変わりたくなんかない」
  母一人子一人だったのに。
  また涙が溢れた。
  まだ七十歳にもならないうちに他界した母。
  何一つ、親孝行らしいこともできなかった。
  せめて、病床にもっと付き添っていればよかった。
  後悔することばかりだ。
  思い出として残っているのは、苦労に苦労を重ね、疲労の色濃いまま、体も心も削り落としていった母の姿だけだ。
「何か、楽しいことはあったんだろうか。俺なんかのために、苦労ばかりさせてしまって」
  考えれば考えるほど、茂の心は重く暗くなっていく。
  幾ら待っても、鬼はやってこない。
  時折、別の鬼が通りかかったが、茂には無関心で通り過ぎていく。
  そのうち、小さな鬼が茂の前にやってきて、
「おーい、あんた」
  膝丈くらいしかない。
  茂が顔を上げると、
「あのさ、あんた、幾ら待ってもあいつは戻ってこないよ。規則違反の頼みごとなんだ。ここでは一切例外なんか認めてもらえないんだよ。あんたがあんまりしつこいから、聞いてやった振りしただけなんだぜ」
  気の毒そうな顔をして、そう告げたのだ。
  茂は言葉を失って、小さな鬼の顔を瞬きもせず見詰めた。
「だからあんたも、いい加減諦めてさ、向こうで転生の順番が来るのを待った方がいいよ」
  小柄なくせに、有無を言わせぬ物言いで、茂は反論することもできなかった。
「ほら、見てみな。仲間たちがいるぜ。あっちいって、次の人生に思いを巡らせる会話の仲間にでも入ることさ」
  顎で示された方角を見ると、穏やかな風貌の人々が、茂の方を眺めている。
「友達か……現世にいる時は、友達なんて呼べる人は、ひとりもいなかったなあ」
  ひとりごちると、
「そんな奴はさ、次の人生で損した分得するようになってるみたいだぜ。早死にしたら、長生きしたり、病弱だった人は健康に。そうでもないとさ、不公平だもの」
  生まれた時には、前世のことなど何も覚えていないのだ。
  それでプラマイゼロといわれても、釈然としない。
  ノロノロと立ち上がった茂は、いわれたとおり、ほかの人々の間に混じっていった。
  すると小鬼はペロリと舌を出し、ニヤリと笑うと薄暮の垣根の向こうに姿を消した。

「新入りさん、あんたの気持ち、わからないじゃないよ」
  白髪頭の眼鏡をかけた、内村と名乗った老人は、七十六歳の寿命だったという。
「懐かしい人、例えば、若いときに不慮の事故で亡くなった親友とか、早世した初恋の人だったりとか。心に残ってる先立った人への思いは、なかなかに打ち消してしまえるもんじゃない」
  あの世で会おう、なんて心に誓ったこともあったしな、と内村はきれいに髭をあたった顎を撫でた。
「でもまさか、死んだ月別に亡者が分けられているなんてなあ。現世では聞いたこともなかったよなあ」
  カフェテリアのような佇まいの建物のテーブルを囲んで、五名のグループの中に、茂はひっそりと入った。
  会話になかなか入っていけなかったのだが、内村に問われ、次第に、おずおずと身の上を語り、遂には亡き母に会って謝罪したいと思うに至ったこと、鬼に会わせてくれるよう懇願したことまで。
  女性や子供もいたが、皆一様に茂に同情してくれているようだった。
「でも、諦めるしかないのでしょうか」
  溜息をつく茂に、
「前例はないのかもしれんなあ」
  と内村も手をこまねいた。
「でも、現世でいろいろと辛い思いをしたら、来世で報われるという話も聞きますし、ここは次の転生にかけてみたらよろしいんじゃないかしら」
  初老の女性が、慰めるようにいった。
  少年も、
「僕は病気で早死にしちゃったから、次は長生きして親孝行したいなあ」
  率直に希望を述べた。
  かなり高齢であったらしい女性もいて、黙って蹲るように座っていた。
  一〇七歳まで生きたそうだ。
「あまり長生きすると子供や孫を看取ることになるから、必ずしも幸せとはいえないんだそうだよ」
  そうかなるほど、と茂は頷いた。
「考えてみると、この町に住んでいる人たちは、善良だけど幸せだったかどうかは……」
  といいかけて、茂は言葉を詰まらせた。
  胸の裡から、固く重苦しいものが込み上げてきて、喉の奥の方から呻き声が漏れた。
  すると心の奥の方に、囁きかける声が聞こえた。
「だからさあ、現世で嫌な思いをしたんだったら、来世では好き勝手に、思う存分自分勝手に生きられたらいいと、そう思わないか?」
  はっとして茂は周囲を見回した。
「正直に生きてきても、何にもいいことなんかないんだぞ。お前、そのままじゃ次に生まれ変わっても、また不幸になるだけだぞ。そこにいる連中なんか、みんなみーんなそうだ」
  声の主は目に留まらない。
  だが、茂はその言葉の説得力に愕然としていた。
  母にも会わせてもらえない。
  ここで愚痴をこぼしながら生まれ変わるのを待ち、また不幸な人生を生き直す。
「いやだ、そんなのはいやだ!」
  茂は頭を抱えて膝から落ちた。
「もういやだ。ばかみたいじゃないか、正直者の人生なんて」
  涙が流れ出して止まらない。
  不幸のまま孤独に死なせてしまった母の死に顔を思い出した茂は、はらわたがちぎれるかと思うくらいに身悶えした。
「どうしたんだね」
「どうしたの、おじさん」
  同席していた他の亡者たちが近寄ってきて心配そうに茂の顔を覗き込んだが、
「うるさい、ほっといてくれ!」
  振り切るように駆けだした。
  勝手のわからない街路をあてどもなく走っている間も、心の中に囁きかける声は途切れない。
「だけどなあ、生まれ変わった時、富も権力も思いのままにする方法があるんだ。聞きたくないか?今までの人生が大逆転するんだぞ。どんなに傍若無人に振る舞っても、誰からも咎められることはないし、お前に逆らう人間は速攻で目の前から排除できるんだ。どうだ、凄いだろう。今までのお前の生きてきた道を振り返ってみろ。真逆だぞ!快楽の人生、正に至高の人生だ!味わってみたくないか!」
  けたたましい哄笑が頭蓋の中で雷鳴のように轟く。
  最初は痛みに感じていた不快な声に、次第にのめりこんでいく自分に気づいた茂だった。
「お前にはその権利がある。どうだ、俺の話に乗ってみないか!」
「どうすればいいんだ?」
  ついに茂は、内なる喚き声に訊いた。すると、
「なあに、たやすいことさ。強く念じるのだ。次に生まれ変わるときは、欲望のままに生きていきたいと。そのためには、どんな犠牲を払ってもいいと、強く強く、念じるのさ!簡単なことだろうがあっ!」
  そうかそうか、そうだったのか!そんな簡単なことだったのか!
  きっと、前回転生するときも、もしもそれを望んでいたなら、
「こんなみじめな人生を生きなくてもよかったんだっ!」
  悔しくて悔しくて、茂は咆哮するように笑い、咆えながら、よろめきながら、二月の町を彷徨した。
「よおし、わかった!俺はそうするぞ、次の人生は、きっと……」
  喚きかけた茂の耳に、
「そうだ、そうしろよ、そうして、この俺様と約定するのだ。次の人生は」
「次の人生は?」
「お前の魂を賭けて、欲望のままに生きると誓え!なにもかもを犠牲にすると、そう誓え」
  誓うとも。
  よろよろと歩きながら、そう叫ぼうとした茂の耳元で
「あーっ!しげるくんじゃない?しげるくんでしょ?」
  甲高い、愛らしい声音が矢のように突き刺さってきた。
  ガクンと膝が折れ、茂はタイル張りの舗道に跪いた。
  幸いなことに、冥府の町には、車は走っていなかった。
  たたたた、と軽い足音がして、誰かが駆け寄ってきた。
「あー、やっぱりしげるくんだ」
  駆け寄ってきたのは女性で、甘い体臭とぬくもりか感じられた。
「死人にも、いい匂いとか温かいとか、あるのか」
  と茂は驚いた。
「なにいってんのよ、忘れたの?あたしのこと。小学校の時一緒だった、篠原晶子よ」
  見上げた茂の目に最初に入ったのは、巨大な胸だった。その向こうに、艶やかな女の顔があり、
「いやあ、俺は、あんたなんか知らないけど」
  おどおどと答える。と、女はけたたましく笑い、
「そりゃあ、あんたはあたしの小学校の時のことしか知らないでしょ?あのころはこんな胸、してなかったから」
  ぱーんと茂の背中を引っ叩いたのだった。
  思い出した茂は仰天した。
  クラス委員だった晶子が、まさか自分を好きだったなんて。
「俺のことなんか、みんな嫌いだと思っていたのに」
「そんなことない。君はさ、クラスのみんなから、いいように利用されるお人よしだと思っていたかもしれないけど、本当は、クラスのみんなから愛されていた人だったんだわ。それに、頼りにされていたし」
「そんなバカな。だってここにいる人たちは、不幸な人間の集まりなんだろ?」
  残念そうに反論した茂に、晶子は笑いかけた。
「誰がそんなことをいったか知らないけど、ここにいる人たちは、行いが良くて早く転生する人たちだわ。本当に不幸な人たちは地獄に行くし、転生の機会は滅多にやってこない、いいえ、もしかしたら、永劫にやってこないんだわ」
  それを聞いて、茂はハッとした。
  犯罪者はいない。いなかった。この冥府の町には。ということは……。
「もしも転生して他人を不幸にしたりしたら、地獄に落ちるんだよ、しげるくん。君は、そんな人じゃないと思うけど」
  巨大な胸が、いきなりしげるに飛び掛かってきた。
  柔らかくて、茂は陶然とし、気が遠くなりそうになった。
「誰も人を不幸にしなかったしげるくんは、次の世界で、きっと幸せが待っているよ。あたしは、次の世界では、しげるくんと今度こそ、いっしょになりたいな」
  いつしか胸の裡を激しく責めたてる声は消え失せていた。
  
  声の主は、小さな鬼は、ばっかん鬼に袋叩きにされていた。
「無理やり地獄行を造るんじゃねえつってんだろーが!誰に頼まれて内職してやがった」
「すんません、それは言えません」
  半殺しにされ、小鬼は息も絶え絶えだ。
  
「茂」
  聴き覚えのある声に、茂ははっと上を向いた。
  するとそこに、巨躯の鬼がいた。
  管理の鬼、母との再会を懇願した巨体の鬼である。
「探しましたよ、茂さん。時間が経ってすいませんでした。一応、例外だったから、許可を貰うのに手間取ってしまって」
  その背後に、声の主がいた。
「茂さん、五分しかないから。時空の門を開けておくのもコストがねえ」
  言葉はいらなかった。
  茂は母に縋り、ごめんなさいといいながら泣いた。
  母は微笑み、
「茂、ごめんなさいね。わたしが心配かけたばかりに、おもいがけず早死にさせてしまって」
  ふたりがひしと抱き合って親子愛を確かめ合う姿を見詰めながら、晶子も貰い泣きしていた。
  
  冥府の町の小さな事件は幕を閉じた。
  そしてまた今宵も、新たな亡者たちが大勢やってくる。
  茂がどんな転生を遂げたものやら、知る由もない。