第玖拾陸夜
  
  黒きサンタクロウス
  
  源節子は、ドアポストに入っていた封筒の中身を見て、背筋を冷たいものが流れるのを感じた。
「どうして、うちが分かったの?」
  尾行されたのか、それとも、誰かが個人情報を漏らしたのか?
  手紙にはわざと乱雑な筆跡で記したと思われる文字で、
「霞町の交通事故の件から手を引け。警告はこれで二度目だ。三度目はないぞ」
  節子は保険調査員である。
  女だてらの職業で、こういった嫌がらせは珍しいことではなかったが、自宅を特定されたのは初めてだった。
  だから、送りつけてきた人物には心当たりがある。
  警察に通報されたらひとたまりもなく、手紙の差出人は特定され、脅迫の罪で連行されることになるだろう。
  だが、節子たちの立場としては、警察に被害届を出しにくい。
  手紙だけでは、まだ実害とはいえず、おそらく警察も動き出してはくれまい。
  それどころか、
「職業柄だし、仕方ないんじゃないの、嫌がらせくらいは」
  と門前払いを喰らいかねない。
  テレビドラマや小説の世界と違って、現実の保険調査員は、それほど警察と密接な繋がりがあるわけではないのだ。
  
  霞町の事故とは、小学生の女の子が車に轢かれて死亡した、悲惨な事件だった。
  原因は、マンションの駐車場から女の子がと飛び出したのが原因。
  交通事故加害者となってしまったのは、その近くにある保育園に子供を迎えに行く途中だった母親である。
  善良な、何の落ち度もない若い母親は、突然加害者となってしまい、その精神的ショックから家を出ることさえできなくなった。
  事故当時心肺停止上体で、すぐにドライバーが救急車を呼び、保育園に設置されていたAEDを使用して蘇生が試みられたが、息を吹き返すことはなかった。
  脛骨骨折と頭蓋骨陥没による大量の脳内出血が原因。
  さすがに医師も手の施しようがなかったようである。
  警察の発表だけを鵜呑みにすれば、気の毒だが事件性のないただの交通事故である。
  だが、損害保険会社の担当者には、何か琴線に触れる怪しさがあったのだろう。
  そしてアウトソーシング企業である節子の会社に調査依頼が来た。
  無論、実績を考慮して彼女が指名されて、のことである。
  聞き込みを初めてすぐに、節子は壁にぶち当たった。
  目撃者皆無である。
「住宅街のど真ん中だっていうのに、この町は人が歩いていないのかしら」
  同じマンションの住人らにも、一通り聞き込みを済ませたが、これといった情報は得られなかった。
「江坂さんは、何に引っかかったんだろう」
  江坂というのが、損保会社の担当者である。連絡を取ってみると、
「被害者の父親ってのがね、なにしろガッついていて、金はいくら出るのか、いつ払われるのかばつかり聞いてくるんだよ」
「そんな人、珍しくないでしょ?」
「まあね。でも、子供が亡くなったんだぜ。冷静になって考えてみるとさ、その男の頭の中、疑いたくなるよなあ」
  言われてみれば確かにそうだが、交通事故被害者の家族の中には、涙の裏で金勘定してる人間など珍しくもないし、顔と心が裏腹なのは、こんな仕事をしていると嫌でも目に付く。
  江坂からの依頼で、被害者の親、本山と直接の面談は禁止されているので、訪問することはできない。
  あくまで周辺の聞き込みで何かを探り出さなくてはならないのだ。
  
「あのお、すいません」
  徒歩で買い物から戻ってきたらしい、初老の男に、節子は声をかけた。
  数回この土地を訪問しているが、初めて見かける顔だった。
「ああ、あの交通事故の件か。もし調査員がきたら、話して聞かせるつもりだったよ」
  意外な言葉に、節子は内心小躍りした。
「被害者の方のご近所さんだったなんて。今までお伺いしてたんですが、いつもお留守でしたから」
「そうかね、偶然だったんだろうね。私はいつも家にいるんだよ。たまたまジョギングしていたか、今日のように買い物していたか、だろうかね」
  コーヒーを淹れてくれた初老の男は、熊田と名乗った。
  妻は昼間仕事でいないのだという。
「かわいそうに。といっても、亡くなった女の子のことだけじゃないよ。私がもっとかわいそうだと思うのは、加害者になってしまった女性のことだ。何の落ち度もない、善良な人が、一瞬にして加害者だ。しかもね、私に言わせれば、あの女の子を死なせたのは、実の父親だ」
  節子は息を呑んだ。
  江坂の勘働きが、まさか的を得ていたと?
「それは、どういうことでしょうか」
  熊田は眉を顰め、
「お嬢さん、あなた子供さんはいらっしやるのかな?」
「お嬢様だなんて、あたしもう四十になるんですけど。子供は息子がひとりいます。受験生で」
  と苦笑した節子に、
「私から見たら、十分お嬢さんだ」
  と熊田は破顔して、
「ねえ、子育てっていうのは、ひとつの危機管理だと思いませんか?」
  と問うた。
「危機管理、ですか」
「そうだよ、子供に、やってはいけない危ないことを教え、気を付けるように、怪我をしないように、病気をしないように教え諭しながら、成長させる。親がやることの中で、一番大切なのはそれだ」
「そうかも、しれません」
「それがだね、親が率先して子供を道路や駐車場で遊ばせる、車の出入りが激しいマンションの駐車場でだ。それだけじゃない。近くに保育園があるよね。日曜日は休みだから、その駐車場を我が物顔で遊び場にしている親子がいる。前の道路は比較的交通量が多いにも関わらず、自転車で車を通せんぼして遊んでいる。どういうことか、分かりますかな」
  節子は、顔が強張るのを感じた。
「うちの妻なんか、私よりはかなり年下なんだが古風でね、母親の躾が良かったんだと思うが、そういう子供たちをみかけると心配して、公園で遊ぶように諭すんだ。するとね、彼らはどうしたと思う」
  節子は熊田の目を見た。
  静かな目だが、その奥に、憤りのようなものが垣間見える。
「私や妻の姿を目にしたら、まるで悪人が来たかのような嫌悪感丸出しの顔つきで、逃げ隠れするようになったんだよ。きっと、親が叱られたら隠れなさいと教えたんだろうねえ」
  今までも、もう少しで車に轢かれそうになり、何度急ブレーキの音を聞いたことか、と熊田は嘆息して、
「私の言った、父親に死なせられたようなもの、の言葉の意味が、お分かりいただけましたな」
  と言った。
  彼は、もし裁判で必要だったら証人として出廷してもいいと約束してくれた。
「これからTPPが始まれば、外資の保険会社が今より増えるだろう。もしそうなったら、恐らく今回のようなケースだと、被害者の遺族には保険金は降りないだろう。少なくとも満額は無理だ。それどころか、アメリカンスタンダードな法律が判例としてまかり通るようになれば、被害者の親は逆に加害者として損害賠償請求されることになるだろうね、ドライバーの側から」
「随分、お詳しいんですね、保険関係に」
  熊田は苦笑して、
「これでも、元金融マンで保険代理店資格も持っていたからね。でも、実際今回のような件だったら、保険金は支払うべきじゃない。言い方は悪いが。日常的に準備された、用意周到な計画殺人だ。保険金目的のね」
  その日節子は、初めて本山という男を見た。
  一見すると、おとなしそうなどこにでもいる平凡な男性にしか見えない。
  それどころか、人懐こそうな優しい風貌に見えたのだ。
  熊田の話を鵜呑みにしていいのだろうか、と踵を返した時、節子は背中に突き刺さるような悪意を感じて振り向いた。
  本山が、一瞬だけ、部屋に入る直前に彼女に視線を投げたのだ。
  
  
  節子は再び手紙に目を通した。
「二度目の警告って、どういうこと?まさか……」
  慌ててドアを開けた節子は
「達之、達之!」
  大声で息子の名を呼んだ。
  が、返事がない。
  家中を探したが、高校受験を控えた少年の姿がない。
「まさか、まさか……」
  家を飛び出した節子は、遠目に自転車で向かってくる姿を見出し、安心してよろけた。
「どうしたの、母さん」
  息子は無事だった。
  しかし翌日、節子は慄然とすることになる。
  熊田が事故に遭い、病院に搬送されていた。
  意識不明の重体である。
  ひき逃げで、使用された車が盗難車だった。
  
  
  節子の出した報告書を元に損保会社が出した結論は、
「被害者の遺族に支払われる保険金は五分の一」
  だった。
  それだけでなく、節子は警察に事の次第を告げ、熊田の事故について関連性がないか伝えた。
「まさかとは思いますけど、そういう近隣トラブルらしきことがあったそうですから」
  警察は面倒臭そうに聞いていたが、
「そんなことくらいで、わざわざ車を盗んでまで人を殺そうとするような人間はいないよ」
  木で鼻を括ったような対応だった。それでも、一応調べてみると応えたが、どこまで本気かどうか。
  ここの警察も、危機管理の観念が薄いのだろうか。それとも、予算を絞られ過ぎて人手が足りず、疲れが蓄積していたのだろうか。
  もう、年の瀬である。
  明日はクリスマスイヴだった。
  
  
  夫を亡くしてからはずっとそうだが、今年も息子と二人きりのクリスマスイヴである。
  それでも、不幸だと思ったことはなかった。
(あの子のためなら頑張れる。保険調査員のような心を鑢で削られるような仕事でも、耐えていける)
  すっかり買い物で遅くなってしまった。
  帰宅直前の節子は、突然目の前が真っ暗になった。
  後頭部を殴られたのだ。
  意識を取り戻した時には、雁字搦めに縛り付けられていた。
  ここがどこだか、さっぱりわからない。
「おう、目が覚めたか、このインチキ保険調査員がよお」
  甲高い、そして品性のかけらもない声が、頭上から降ってきた。
  初めて聞いた声だが、間違いなく本山だと思った。
「お前があの熊田の爺と示し合わせて、うちに保険金が少ししか出ないように企んだのは先刻ご承知なんだよ!余計な真似しやがって!」
  冗談ではない。逆恨みもいいところだ。
  反論しようとしたが、猿轡を咬まされていて言葉を発することができない。
「母子家庭なんだってなあ。しかし、今夜からあんたの息子はひとりぼっちだっ!ざまあみやがれ」
  本山のせせら笑う顔を見て、節子は嘔吐しそうになった。これほどまでに卑しい顔した人間は、かつて目にしたことがないと思った。
  激しく首を振った拍子に猿轡が外れた。
  節子は叫んだ。
「あなたのやったことは、全部わかっているし警察にも話したわ!自分の子供の命を、いったいなんだと思っているんですかっ!」
  本山は鼻で笑い、
「何を利いた風なことを。俺のガキだぞっ!自分のガキの命をどう扱おうが、親の勝手ってもんだ。親が金に困っていたら、子供はその命を差し出すもんじゃないか。昔は親孝行のために娘が遊郭に身売りしたんだぞ。時代が変わってもなあ、そんな道理がまかり通るってもんなんだよつ!今でもそうやって風俗に働きに出る若い女なんか幾らでもいるんだっ!」
  愕然とした節子は、本山の顔を凝然と見た。
  この現代に、こんな非常識で卑劣な人間が実在しているということが、信じられなかった。
「違う……」
  腹の奥底から込み上げてくる怒りに、言葉がまともに出てこない。
「違う、子供は、慈しみながら、時には厳しく、時には優しく、そうよ、熊田さんが言ってた。危機管理を教えながら育てるものよ!親のための道具なんかじゃないのよ、この人殺し!」
  うるせえ、と罵倒しながら、本山は短い脚で節子の顔面を蹴った。
「きれいごと抜かしやがって!俺はなあ、お前みたいな偽善者が、この世で一番嫌いなんだよ!保険調査員みたいな下世話な仕事しているくせに、いい気になってんじゃねえよ!」
  幾度も幾度も顔を蹴りつけられ、瞼が切れて節子の顔面は血塗れになった。
  嬉々として本山は更にエスカレートし、口を蹴り腹や胸を蹴り、鼻を蹴った。
(もう、ダメだ……)
  ふたりきりのクリスマスを、息子と祝うはずだった。
  それが叶わない。
  永遠に、息子は自分を失うのだ。
  瞼が腫れ過ぎて、涙も出てこない。意識が完全に飛ぶ寸前というのを、生まれて初めて節子は体験した。
  激しい音が、暗い室内に響いた。
  朦朧とする頭を、必死で振る節子の前には、異様な光景が現れていた。
「誰だ、てめえは。この女のイロかあ?」
  ヘラヘラ笑いながら、本山が床から金属の棒を取り上げた。
「よくここが分かったな。だが残念だねえ、お前もこの女と一緒にぶっ殺してやるよ。ここは誰にもわからない場所なんだ。お前たちの死体を隠しても、時間はたっぷり、余裕なんだよ」
  本山が誰かに襲いかかろうとしている。
  節子には、心当たりはなかった。
  だが、確かに部屋には第三者がいた。
  節子は目が腫れ上がっていてよく見えないのだが、とにかく真っ黒で本山よりも相当上背のある姿だ。
  頭にも、黒いフードを目深に被っていて顔は全く見えない。フードの頭頂部分に、不似合いな白い毛玉のようなボンボンがくっついていて、それがなんだかおかしかった。
  こんな状況なのに、自分はおかしいと思っている。それが不思議だった。
「死ねや、こらあっ!」
  本山の振り下ろした鉄パイプを、フードの男は避けなかった。
  ごつん
  だが、フードの人物は、そんな攻撃を意に介する様子もない。
  突然素早い動きで本山に襲いかかると、
「ぎぃゃああっ!」
  小男の腕を逆に絞って、そのまま、
  べきん
  へし折ったのだ。
「な、な、い、痛えええええええ!」
  それで終わりではなかった。
  フードの男はいつの間にか、巨大な斧らしきものを取り出していて、振りかぶったかと思う間もなく、本山の腕めがけて打ち下ろしたのだ。
  絶叫と血飛沫が節子の目の前を染めた。
  しかし、本山の悲鳴もすぐに萎んでいった。
  ガツンガツンと絶え間なく打ち下ろされる斧の下で、本山だったものは、原型をすっかり失い、赤黒い何かの塊となり果てた。
  それと同時に、白いボンボンも赤黒く染まっていった。
  本山だったものを真っ黒な頭陀袋に押し込んだ男は、今度は節子の傍にゆっくり歩み寄ってきた。
(わたしも、殺される)
  だが殴られ蹴られ過ぎて、まともに考える力も残っていない。
  フードの男は巨大な顔を節子の鼻先にまで近づけ、
「メリークリスマス、お嬢さん」
  と言った。
  縄が解かれ、節子はよろよろと転げるようにして逃げ出した。
  
  
  三つの頭を持つ、水牛ほどもある巨大な犬が、大量の砂糖菓子に舌鼓を打ちながら、主の戻るのを待っていた。
「よしよし、みんないい子にしていたか」
  その犬に結び付けられた巨大な橇付きのゴンドラに乗り込んだ男は、膨らみすぎた袋をゴンドラにどどんと乗せ、
「はあああっ!」
  威勢よく犬たちに声をかけた。
  天空高く舞い上がる。
  滑空すると、忌まわしい紋様の描かれた巨大な門が宙空にガバンと開いた。
  橇が吸い込まれると、雷鳴のような音が響いた。
  門が閉じた瞬間、地面までもが揺れた。
  それが合図だったかのように、空は真っ白に染まった。
  
  警察に保護された節子は、満身創痍で病院に収容された。
  駆け付けた大切な一人息子の手のぬくもりに、生き延びた喜びを感じた。
  
  
  翌朝は、あまりにも清々しいホワイトクリスマス。
  この世の黒いものをすべて、あのフードの男が片づけてくれたのだろうか、と節子は思った。