第玖拾伍夜
  
  上がる
  
  
  細い細い、螺旋。
  階段なのだ。
  なぜ、こんな階梯を上がっているのか、いつ上がり始めたのか、さっぱりわからない。
  分かっているのは、この階段は支えがなく、遥か上空にある小さな建物にぶら下がっているように見えることだった。
  空中は風が強い。
  手すりもなく、薄く白い板が階段状になっているだけの足場は、風に揺さぶられ、いつ空間にこの実が投げ出されるか知れたものではない。
  大きく揺れる時には這いつくばって、風の攻撃をやり過ごさなくてはならなかった。
  その上に、寒い。
  凍え、手足が痺れ、感覚もなくなってきている。
  今もし、手足の指先を切り取られたとしても、痛みすら感じないだろう。
  こんな思いをしてまで、何のために上っているのか。
  自問してみるが、答えは見いだせなかった。
  遥か上空を見上げてみると、小さな、ブロック色の建物が大きく揺れている。
  耳元で、ベートヴェンの『悲愴』第二楽章が、繰り返し繰り返し流れている。
  どうして、こんな時に音楽が、しかも悲愴が流れるのだ。
(俺はどこへ向かっているのだろう、何のために)
  だが、中途で止まってしまうこともできない。
  ここで止まってしまったら、水も食べ物もない。
  ただ風に揺られて餓死するしかない。
(まるで、風葬じゃないか、それじゃ)
  そんな死に態は御免だった。
  だったら、降りればいいのではないか、とも思うのだが、足下を見ると、それはとても無謀なことだと思い知らされる。
  あまりの高さに、階段は途中で霞んで見える。
  地面は、地面とは思えない様相を示していた。
  高すぎて、何か地球に描かれた模様のようにしか見えないのだ。
  おそらく下る途中で力尽き、空腹に眩暈を起こして転げ落ちるか、乾いて階段に引っかかったミイラになり果てるか。
  いったい、地球の表面から、何キロくらい離れた高さにいるのだろうか。
  それを真剣に考え始めると、激しい絶望感に囚われた。
(なぜ俺は、こんなところでこんなことをしているのだろう)
  
  ようやく、宙に浮いた建物に辿り着いた。
  下に向いた扉を押し上げると、中から手が差し出された。
(おおおっ!)
  心の底から込み上げてくる喜び、俺はこれまでの苦労がすべて報われたような思いで、その手を握った。
  強い力で引き揚げられ、ホッとした。
  だが、引っ張ってくれた男の顔と対面した俺は、息を呑んだ。
「ようこそ、と言いたいところだが、あんたなんでこんなところに来たんだ?」
  しわがれた声を発した男は、肩下まである蓬髪に、こけ落ちた頬から顎にかけて伸び放題の髭、枯れ木のように痩せ細った手足に襤褸を纏っただけの姿である。
  俺は愕然として部屋の中を見渡した。
  壁に寄りかかっている者、床に寝そべっている者、壁に向かって座り、ぶつぶつ何事か呟いている者、窓から外を眺めている者。
「こ、ここは、いったいどこなんだ?」
  問うた俺に、そこにいる者たちは、皆、
「さあ?」
  と首を傾げてみせるのみだ。
「おい、なにか食い物とか水はないのか?」
  と訊くと、皆顔を見合わせ、力なく乾いた笑い声を立てた。
「雨も降らないんだぞ、ここは。水なんかあるわけないだろ」
  引き揚げてくれた男が嗤った。
「じゃあ、どうやってみんな食事してるんだ?」
  すると、男がひとり立ち上がり、突き当りのドアに向かった。
「来いよ」
  と呼ばれ、ついていくと、
「見ろ」
  開けられたドアの中を覗き込んだ。
「う……、うわわわっ!!」
  我ながら情けないくらいにけたたましい悲鳴を上げた俺は、ビタンと尻餅をつき、卒倒しそうになった。
  背後で、力無い嗤いが起こる。
「大体、順繰りに誰かが死んでくれる。それで食い繋いでいるんだよ」
  ドアの向こうに積み上げられていたのは、白骨だった。
「心配するな、生きながら食うなんてことはしない。みんな互いに、誰かが死ぬのを待っている。先に息絶えても、恨みっこなしだ」
  
  俺は、再び階段を登りはじめた。
  この小屋はゴールではなく、天井に更に上に行くドアがあったのだ。
  飢えは限界に達していたが、ここで死ぬよりは、階段に引っかかって、もしくは落ちて死ぬ方がマシだと思ったのだ。
  上は小さくなって見えなくなっている。
  いったい、どこまで繋がっているのだろうか。
  上がりはじめる時、皆口々に、
「幸運を祈るよ」
  と手を振ってくれた。
  彼らはどうして、あの小屋に辿り着いたのだろう。
  どうしてそこで諦めてしまったのだろう。
  どうして俺は、こんな階段の上で意識が戻ったのだろう。
  なにもわからないまま、強風に揺らぐ螺旋階段を一段一段、震えながら上り始めた。