第玖拾参夜
  
  思い出の人
  
「工藤さんって、工藤奈々子さんのことですか?」
  年配の管理人は老眼鏡を下にずらし、上目遣いに私を見た。
「ええ、そうです。こちらの502号室にお住まいと伺って参ったのですが」
  読みかけの新聞を閉じ、管理人は訝しげに私を品定めするように見ていたが、
「どんなご用件かは存じませんが、工藤さんは亡くなりましたよ」
「え?」
  と言ったきり、私は言葉を失った。
  管理人の発した言葉の意味を、どう受け止めていいかわからなかったのだ。
「もう、二年半ばかり前になりますかねえ。入院先の病院で。502号室は、今は空き家んなってますよ」
  それきり、何を訊きどう語ったらいいかわからなくなった私は、かろうじて彼女の身内の連絡先だけ、尋ねてみた。
  すると、
「いやあ、身内の方はおられなくてねえ。だから、理事会で葬儀をして、墓は町営のお墓、共同納骨堂に入れてもらったんですよ。長年お住まいで町会や理事会に功績のあるかたを、よもや無縁仏にするわけにもいかなかったからねえ」
  随分と、立ち入った部分まで詳細に語ってくれたのは、私が危険な人間ではないと、肌身で感じてくれたからだろうか。
  帰りしなにわかったことだが、私は管理人の話を聞いているうちに、涙を流してしまったらしい。
  さびれた商店街の窓に映った、自分の顔を見るまで気づかなかった。
  
  共同納骨堂の中は寒かった。
  工藤奈々子の享年を目にした私は、ますます混乱の度合いを増した。
  半年前、出会っていた彼女は、どう見ても四十前の女性だった。
  だが、墓碑に記された彼女の逝年は八十七歳だったのだ。
(私が、工藤奈々子として接していた女性は、いったい何者だったのだ?)
  いや、そもそも工藤奈々子という女性は、三年近く前に亡くなっているのだから、半年前に知り合った女性とは別人なのだ。
  ではどうして彼女は、偽りの名を名乗ったにも関わらず、この町の住所、誰も住む者もいない部屋の番号まで教えたのだろうか。
  
  工藤奈々子と初めて出会ったのは、旅先の小さな町の片隅だった。
  地味な観光地で、決して賑やかではなかったが、静かで趣があり、団体さんや修学旅行生などが訪れる場所ではない。
  大人が一人旅するにはうってつけの町だと思えた。
  梅雨の晴れ間、雲の間にぽっかりと覗いた太陽の眩しさを楽しんだ小高い丘の城址にあるベンチで、私は彼女と隣り合わせたのだ。
  どちらからともなく会話が始まり、いつの間にか会話は笑い声に変っていた。
  私は若くして妻と死に別れてしまい、日々の寂しさを埋めるために、時々一人旅に出ていることを彼女に告白した。
  五十を目前に控え、そんな話を他人にしてしまったのは、初めてのことだった。
  聞き上手、というのだろうか。
  奈々子はただ黙って話を聞いていながら、それでいて、私が話に詰まると、
「その時に奥様は、あなたの傍でぬくもりを感じていらっしゃったのでしょうね」
  などと、凝りを解すような言葉を挟んでくれた。
  そういえば、と思い出す。
  確かに妻は、あの時に、会話を交わすわけではないのに、寄り添ってくれたなあ。
  などと、すっかり忘れていた情景が思い起こされ、孤独という穴を穿たれた心に、柔らかな詰め物をしてくれるような言葉運びをする、奈々子という女性にすっかり感心してしまったのだった。
  縁は一日では切れず、その町に滞在した三日の内二日は、彼女と諸方を散策することになった。
  寺社仏閣といった名刹を訪ね歩き、坂道を上り、畦道を歩き、満開の紫陽花の中で写真を撮り、雑木林の中で気の早い蝉の音に耳を傾けながら、一刻の安らぎに身を委ねた。
  旅の最後の日、私は奈々子に会えなかった。
  彼女は一足先に、旅を終えてしまっていたのである。
  残念に思いつつも、私もまた日常に舞い戻らなくてはならなかったのだが、一縷の望みは残されていた。
  彼女は旅立つ前に、自分の所在を記したメモを、私が宿泊していたホテルのフロントに預けておいてくれたのである。
  それを頼りに、ようやく暇のできた私は、今日、この町を訪れたのだったが……。
  
  釈然としないままだったが、いつまでもこの町にいたところてで仕方がない。
  何の手がかりもない以上、半年前に出会った工藤奈々子に、ここで再会できるとは到底思えなかった。
  意気消沈した私は、墓地を後にして駅へと向かった。
  寂れたホームの端でベンチに座り、何かを考える力すらも失い、首を垂れている私の前に、立ち止まった人がいる。
  それにしばらく気づかない程、私はぐったりしていたようで、
「牧田さん」
  と声をかけられるまで、わからなかった。
  女性の声に顔を上げた私は、
「あっ!」
  と発したきり、言葉も出なくなった。
  半年の間、一日たりとも忘れたことのなかった、そして今日、すでに故人だと、しかも八十過ぎだと聞かされた、あの工藤奈々子が、あの時のまま、元気な姿で私の目の前に立っていたのだから。
  
「こ、これは、どういうことなんだ?」
  狼狽する私の横に腰かけた奈々子は、
「驚かせてごめんなさいね。でも、騙したわけじゃないのよ」
  あの人同じように、優しい笑みを浮かべている。
「やっぱり、別人だったのですか。良かった、生きててくれて」
  それだけいうのがやっとだった。
  混乱が収まると、今度は嗚咽が突きあがってきた。
  形容しがたい思いだった。
  嬉しいような、それでいて、なんだか手玉にあしらわれたような歯がゆさも相まって、素直に喜べないでいる。
「あなたの、本当の名前は、工藤奈々子さんではないんですね?どうして、亡くなった方の名前を騙ったりしたんですか?もし、二度と会いたくないのなら、あんなメモは残してくれなくても……」
  詰る私に彼女は、
「いいえ、嘘ではないわ。さっきも言ったけど、騙したわけじゃないの。あなたなら、その言葉の意味が理解してもらえると思ったのだけれど」
  そう告げて、探るように私の両眼を見据えたのだ。
「ねえ、牧田さん、そうでしょ?」
  まさか、彼女は、私と同じ……。
  
  
「最初に気づいたのは、あなたの身の上話を聞いたとき。若くして死に別れた奥さんと過ごした年代を推理したら、どう考えても明治初期としか思えなかった。かと思えば、昭和の話も混じっていたりする。つまり、二人の女性と死に別れていることになるわ。その思い出の人の話が、びっちゃになってしまったのね」
  と奈々子は笑った。
「あなたも、私と同じある程度の年数を生きると、ある日突然逆転現象を起こし、若返り始める。そして若さを取り戻すとそこからまた、再び歳を重ねはじめる。それを昔から、何度も何度も繰り返してきたのでしょう?私は工藤奈々子として三年前まで生きてきたけど、いい加減若返りがひどくなって、年寄りメイクにも限界が来たから、死んだことにして別の女の人生を歩くことになったのよ。これが何度目かは、もう数えていないけれど」
  まさか、まさか……。
  まさが自分と同じ時間を何度もターンする者がいたとは、考えたこともなかった。
「ねえ牧田さん、初めて出会ったときに気づかなかった?すっかり意気投合したのって、何か類似点があったからだってこと。私はこの半年間、あなたのことを調べてきたわ。いつ再会してもいいように。今日のこの日を待っていたのよ」
  奈々子は嬉しそうにはしゃぎ、
「ずっと孤独だった。誰かを好きになっても、必ず先に死なれてしまうのよ。不死は辛く苦しいもの。永劫の罰を受けているようなものだわ。幾度も年老いて、幾度も中年に戻って生きなおす。生まれ変わって赤子や少女時代を過ごせるのならともかく、大人と老人を永劫に繰り返すなんて、これを呪い、罰と言わないで、ほかにどんな言葉があるっていうのかしら」
  深々と溜息をついた奈々子だったが、
「でも、大丈夫。同じ苦しみを分かち合える人が傍にいてくれれば、耐えられるかもしれない苦痛だわ。だからこそ、わたしはあなたを同類と確信するための証拠を探していたの。ちようどそれが今日だったなんて、これこそ、天の配剤というのでしょうね」
  饒舌に語りだした。
「あの時わたしたちが出会ったのは偶然ではない。その証拠に、あなたはわたしに会いたくて探しに来てくれたんだもの」
  おとなしく聞いたいたわたしだったが、ベンチから立ち上がった。
  奈々子の手をすり抜け、ホームに滑り込んできた電車に乗った。
「どうしたの、牧田さん、待って、わたしたちは、一緒にいた方がいい、同類なのよ、わかるでしょ?」
  電車に飛び乗ろうとした奈々子を、私は押し戻した。
「君、忘れたのか?千年以上も前に、一緒に人魚の肉を喰らってしまう罪を犯した時に……」
  奈々子の鼻前で、ドアが閉じようとしていた。
「二度と会わないと、約束したじゃないかっ!」
  ドアガラスに手をついて、私は流れる涙を拭おうともせず、彼女に向かって叫んだ。
「再会すると、君の永遠の命は、失われるんだぞっ!」
  会ってはならなかったのだ、決して。
  それなのに……。
  
  
  奈々子は、それでも私を訪ねてきた。
「もう、終わりにしましょう、それを言いたくて来ました。命は、限りが必要だと思うの」
  私は頷き、奈々子に手を差し伸べた。
  抱き締めると、その細い体に刻まれた、苦悩の日々が私の体に流れ込んできた。