第玖拾弐夜
  
  咬み生り
  
  傘が役に立たない暴風雨の夜である。
  冬空の重い雲に閃光が走った。
  轟音が胸騒ぎを引き起こし、一刻も早く部屋に戻り布団にくるまって怯え震えていた方がましだ。
  そんな冬の嵐の最中、僕は骨のへし折れた傘をぶら下げ、風を遮る建物とてない田舎道を、トボトボと歩いていた。
  タクシーどころか、車一台通らない、これぞ僻地だ。
  だけど、一刻も早くこの町から抜け出さなくてはならない。
  道路が季節外れの豪雨で瞬く間に冠水し、足首まで水が上がってきた。
  寒さが冷たさが、足首から太腿、腰の辺りまで駆け上がってきて、すぐに痺れと痛みを伴った。
(ヤバい)
  間違いなくヤバい。
  大した距離でもないのに、町の境に辿り着く前に身動きできなくなりそうなくらい、急速に体が冷えはじめた。
(これも、奴らの仕業かっ!)
  まさか。
  いくらなんでも、自然現象まで操れるはずはない。
  背中のリュックの中身を思った。
  何か余計なものを入れていなかったか。
  もっと身軽にできなかったか、と歯噛みした。
バッ!
  突如、真昼のように明るくなった。
  稲妻。
  地面が割れたかのような轟音が全身に襲いかかる。
  まだ距離があるが、次第に差し迫ってきているように感じた。
  雷は嫌いではない。
  だが、それは室内にいて安全を確保しているときに限られる。
  見渡す限りの平地、避雷針はおろか、建物もない。
  高い樹木も遠い。
  民家もなく、電信柱すらもない。
  田んぼだけだ。
  今動いているのが自分だけでは、落雷のターゲットはおのずと知れている。
  ぱりぱりっ
  乾いた音を立て、雲間を閃光が走る。
  僕を狙った雷獣というケダモノが、薄笑いを浮かべつつ舌なめずりしているようにしか見えなかった。
  脚は重く、一歩進むのさえ緩慢になっていく。
  町境まで、もう一キロもないはずだというのに。
  こんなところで挫けるわけにはいかない。
  進むのだ。
  更に雨が強さを増した。
  水の塊が叩き落されているかのようだ。
  全身が冷え固まって、ここで凍てつくような錯覚すら覚える。
  みぞれだから、夏の雨とは違うのだ。
  冬を目前に控えた雪国の霙は容赦がない冷たさだ。
  せめて、雨合羽でも着ていれば、もう少し何とかなったかもしれないのに。
  闇の向こうに、立て看板が見えた。
(あった、あったーっ!)
  町境の道標だっ!
  助かった。
  これを越えさえすれば、助かる、はずだっ!
  感覚を失い鉄の棒のように曲がらなくなった両膝をぎこちなく踏み出させ、なんとか、道標に向かって歩いた。
  道路の水嵩は増し、くるぶしより上にまで上がってきている。
  まるで川だ。
  そしてそれは、進行方向から流れてきているようだった。
  でも、もう大丈夫。
  届く。
  手を伸ばした。
  指先が標識に触れようとした。
(やった)
  体が、ガクンと倒れた。
  顔から、水に突っ込む。
  両手が、
  ばしゃあっ
  水飛沫を上げた。
  なぜ倒れたのか、わからない。
  首をよじって足を見た。
  感覚が麻痺してわからなかったが、足首が、掴まれていた。
「どこへ行くの、ヨシロウ」
「え、エリ……」
  まさか。
  なんということだ。
  僕の右足に、エリがしがみついていた。
  いったい、いつの間に!
「ずーっと、あなたの脚に掴まっていたのに、気が付かなかったなんて」
  とエリは嗤った。
  道理で重かったわけだ。
「さあ、町に帰りましょう。あなたには、どこへも行くところなんかないのよ」
  その言葉の意味するところは、厭でもわかっている。
  だけど、僕は抗った。
「いやだ、絶対に戻らない!戻るもんか」
「ヨシロウ、あなた、あたしを愛してるって言ったでしょ?」
「言ったよ、言った。でもそれは、君を……」
  そう、知らなかったからだ。
「だったら、あたしを置いてどこかへ行ってしまうなんて、できないはずよ」
  僕はもう全身が痺れてまともに身動きができないし、ずぶ濡れで寒くて凍えていて、今にも気を失いそうだというのに、エリはなんてひどい嫌がらせをするのだろうか。
  蹴り飛ばしてやりたいけれど、足が動くはずがない。
「だって、君は、君は……」
  僕は絶望し泣いていた。
「あたしが、何?」
  また閃光が走った。
  僕の足元で、エリの顔が真っ白に光った。
  いつもの美しい彼女とは違う、別の顔。
「君は、化け物じゃないかっ!」
  僕は咽んだ。
  小さく縮んだ瞳孔。
  耳元まで裂けた唇。
  ずらりと並んだ、鮫のような牙。
「だから、仲間になればいいんだわ」
  いやだ……。
  力なく抗ってみたものの、敵うはずもない。
  身動きできない僕の体の上を、リエが這い上がってきた。
  咬み、生る。
  彼女たちの生命は、人間たちの生血で成り立っている。
「でも、こうしなければ、あたしたちは、死んでしまうの」
  吸われた僕は、凍えるを通り越して、本当に凍てついた骸と化していくのだ。
  急速に、体奥まで冷気が浸透してきた。
  意識が遠のく。
  また閃光が走った。
  血だらけの唇に笑みを浮かべたエリが、僕を見下ろしていた。
  咬み生りたちのテリトリーに踏み入れてしまうと、もう、二度と……。