第玖拾壱夜
  
  濃い色の瓶
  
  最近はどうか分からないが、数十年前だと、例えば突貫工事で納期を急いでいる工事現場では、奇妙なモノが掘り出されても、有耶無耶に隠されてしまうことが往々にしてあった。
  高層ビルや地下鉄、
  唯一の例外と言えば、戦時中の不発弾だ。
  作業中に爆死すると大変なことになるので、自衛隊の爆発物処理班が急行してすぐに片づけてしまった。
  臨機応変だから、工事の日程への障害は少ない。
  もしも処理に何日も要するなら、業者は自分たちでトラックに載せてどこかへ捨てに行っていたかもしれない。
  学術的発見に繋がるかもしれない古墳や遺跡、化石などが見つかっても、すべて工事が優先されていたので、どこへも届けずに隠した。
  骨が出ようが、それが古代の墓地の痕跡だったとしても、瓦礫や土砂と一緒に東京湾の埋め立てに使った。
  もっと生々しい、腐りきっていない死体が袋に包まれて出てきたとしても、作業に支障をきたすよりは、警察への届け出を拒み隠蔽した方がいい。
  発注元の機嫌も損ねずに済むというものだ。
  
  その高層ビルの土台を作っているときに、佐田はかなり深く掘られた部分、地表から十メートルも底の位置で、変なものを見つけた。
  真っ黒な壜だ。
  蓋の部分は錆か何かで変色している。
  何気なしにポケットに仕舞い、作業を続けた。
  佐田が寝泊まりしていたのは、作業員簡易宿舎だ。
  いわゆる、タコ部屋と呼ばれていたような部屋。
  薄い毛布に包まり、酒の勢いで寝つこうとしていた佐田は不意に、
「そうだ、あれは……」
  昼間拾った壜のことを思い出した。
  壁にかけた作業服のポケットから取り出してみると、小壜であるにもかかわらず、意外に重たい。
  蓋に当たる部分は変な色に錆びついた金属で、捻ろうとしてみたが、ビクともしない。
  軍手をつけてもう一度試してみたが、滑ってしまうばかりだ。
  薄暗い灯りに透かして見たものの、中にはまったく光が通らなかった。
  振ってみても、音がするわけではないし、中で何かが動く感触もなかった。
  美しいわけでもないし、何かの芸術品のような美しい装飾がなされているわけでもない。
  それなのに、
「なんだか、気になるなあ、この小壜」
  翌日から佐田は、その壜を肌身離さず持ち歩くようになった。
  
  
  高層ビル建築ラッシュの時代に入った昭和四〇年代後期の東京は、道路の支配者がトラックだった。
  今では死語となってしまったが、新宿副都心の建設ラッシュ時代には工事に携わるトラックが首都高速や一般道路を席巻したと聞いた。
  甲州街道は排気ガスで歩けないほどだったと。
  佐田は、そんな煤煙の只中で日常を送っていた。
  故郷には、出稼ぎから戻ってくる彼を待ちながら、家を守っている妻がある。
  そして、生まれて間もない娘も。
  多少体の具合が悪くても、仕事は休まなかった。
  一円でも多く、故郷に仕送りするために。
  仲間の中には、東京で博打にうつつを抜かし、骨抜きにされた挙句、借金までさせられ、その返済のために働いている者もいたし、歌舞伎町の女の色香に迷って故郷への仕送りを使い果たした者もいた。
  皆、故郷から遠く離れた場所で孤独と闘いながら、少しでも金を稼ごうと遮二無二働く。
  しかし、気力は萎えるものだ。
  そして萎えた心は癒しを求めてしまう。
  その弱さにつけ込まれてしまった者は、踏み外した道を元に戻せないのだった。
  佐田は違った。
  そういった誘惑には、一度も引っかからなかった。
  ひたすら仕事に打ち込み、出稼ぎの明けの日を待ち続けた。
  堅物の彼だが、それでも時には、繁華街の誘惑に負けそうになったこともあったし、賭博に誘われたことも、幾度もあった。
  遂に心が折れそうになったこともあったが、そんなある日、地下一〇数メートルの穴倉の底で、あの小壜と出くわしたのだ。
  不思議な小鬢。
  中身の見えない小壜。
  蓋の開かない小壜。
  謎めいたアイテムに心を奪われた佐田は、仲間たちからのどんな誘いにだって応じることもなく、仕事が終わるとその小壜を眺めて過ごしたのだった。
  
  春一番が吹いた夜。
  佐田は異を感じて跳ね起きた。
  まだ明けきらぬ、午前四時ころのことである。
  両手で胸に包むように抱いていた小壜が、消えている。
「どうした、どこに行った?」
  どこにもない。
(誰か、盗んだのだろうか?)
  周囲を見回したが、わかるわけがない。
  同部屋の者はまだ寝入っているし、誰かが出入りした気配もないのだ。
  佐田は意気消沈した。
  今日、故郷に戻るのである。
(まあ、いいか。どうせ拾ったものだし、中身がなんなのかもわからないし)
  ただ、出稼ぎ先での無聊は間違いなく慰められたのである。
  これからも思い出の品として故郷の自宅に置いておきたいと思ったのだ。
  荷物をまとめ、宿舎を出た佐田を呼び止めたのは、隣室にいる男で、確か野村とかいう評判の悪い奴、賭博狂いだった。
「おう、けえるのか」
「はい」
  とだけ答え、脇をすり抜けようとした。
「こら待てお前、挨拶もできねえのか」
  いきなり因縁をつけてきたので、佐田は逃げるように早足になって、
「すんません、汽車の時間があるから」
  立ち去ろうとした。
  しかし野村は追いすがり、
「待てつってんだろうが」
  他の仲間たちが宿舎から顔を出したが、関わり合いになりたくないのか、ちらっと見ただけですぐに引っ込んでしまった。
  本来なら傷害事件で警察に引っ張っていかれている男だった。
  しかし、人手が足りないことから、野村は逮捕されずにいたのだ。
「おいおめえ、随分ため込んでたんだってな。ちょっと置いていけ」
「じ、冗談はやめてくれ、家族の大切な生活費なんだ」
  野村は凄まじいほどの怒りも露わに、
「何が家族じゃ、こらあっ!幸せ風吹かしてんじゃねえっ!こっちは素寒貧で今日の飯代ももねえんだっ!有り金置いていけっ!」
  とんでもない不埒な言い分に佐田は呆然とした。
  そして、野村が隠し持っていたモノを出したのを目にし、血の気が失せた。
  鈍く光る、包丁だったのだ。
「あんた、いったいどういうつもりだ」
  佐田の声が震えたのを耳にして、野村は勝ち誇ったような笑い顔を見せ、
「おとなしく金を出せば、命までは取らねえよっ!」
  と胸倉を掴んで頬に刃を押し付けた。
「ダメだ、これは、家族のために……」
「なあにが家族だっ!俺だって帰りたいが、金がねえんだよっ!」
「それはあんたが、博打で金をすっちまったからだろう!身から出た錆じゃないか」
「うるせえ!何説教垂れてやがんだっ!偉そうな口利いてんじゃねええっ!」
  怒り狂った野村は包丁を振り翳した。
「ぶっ殺してやるっ!」
  双眸に、狂気の焔が宿るのを見た佐田は、死に物狂いで野村の腕から逃れ突き飛ばすと、
「助けてくれーーっ!」
  荷物を胸に抱き締めて走り出した。
  脚が縺れた。
  転倒した佐田に馬乗りになった野村は勝ち誇ったような咆哮を上げ、包丁を振り翳した。
  怯え絶望した佐田の耳元で、
  カララ
  何かが転がるような、乾いた音がした。
「死ねえぇぇっ!」
  怒号と共に、包丁の刃先が降ってきた。
  万事休した。
(なんて理不尽な)
  固く目を閉じた佐田は、歯を食い縛った。
  一秒が、数時間にも感じた。
  恐々目を開いた佐田は、意外なものを目にした。
  包丁を振り下ろそうとした姿のままで、野村が固まっている。
  その体の表面が所々、光沢のない灰色のどろどろとしたものが覆っている。
  仰天しつつも、佐田は必死で野村の股下から這い出した。
  その指先が、何か固く冷たいものに触れた。
  はっとして目をやると、あの見失ったと思っていた小壜が指先に転がっている。
  そして、どうしても開かなかった蓋が、無くなっているではないか。
「うわわわあああああああーーーーー」
  悲痛な喚き声に我に返った佐田は、野村を見た。
  そしてみぞおちの辺りが抉られるような恐怖を覚えた。
  跪いた姿勢のまま、野村が全身を灰色のカビのようなモノに覆われ、もがき苦しんでいるのだ。
  悲鳴を上げながら佐田は、その場から逃げ出した。
  目撃していた労働者たちの誰もが、それを無言で見送り、誰一人として野村を助けようとする者はいなかった。
  
  故郷に戻った佐田は、もしかしたら自分を救ってくれたかもしれない小壜を神棚に置いた。
  家族の顔を見たら、今まで辛かったこともすべて忘れられた。
  留守を守ってくれた妻が、とても愛おしく思えた。
  野村のことは、思い出さないよう努め、翌年の出稼ぎは、別の土地にしようと決めた。
  
  佐田は気づかなかった。
  ある夜、灰色の微細な粒子が液体のように彼の家に侵入し、神棚の小壜に入っていったことに。
  飼い猫のコタロウがそれを目にし、一瞬ニャアと鳴いたが、すぐに何事もなかったかのような表情になった。
  まるで、家族が戻ってきたかのように、ごく自然に受け入れた。
  
  やがて農閑期が訪れ、佐田は再び出稼ぎに出て行った。
  ポケットには、あの小壜が入っていた。
  蓋は相変わらず錆びたような色で固く閉ざされたままだ。
  あの日、拾い上げて逃げる時に、蓋がなくなっていたことに、佐田は気づいていなかったのだろうか。