第撥拾漆夜
  
  嘘のような話だから  


「嘘のような話だから、信じてくれなくてもいいんだ。だが、わたしは誰かに聞いて欲しくてね。つまらない老人に捕まってしまったと、身の不運を嘆いてもいい。君の酒代と焼鳥代くらいは持つから、どうかわたしの話を聞いてもらえないだろうか」
  そう懇願する老人は、涙さえ浮かべていた。
  僕は、自分の祖父よりもっと老けていそうな、でも身なりのいい老人に頭を下げられ、いちもにもなく、
「ぼ、僕でよかったら、お話を聞かせてください」
  と答えたのだ。
  おおお、と老人は皺だらけの顔満面に喜びを湛え、
「ありがとう、おにいさん。さあ、どうぞ、呑んで、呑んで」
  頻りに僕にビールを勧めたのだった。
「ほら、四丁目にスーパー、あるでしょ?」
  四丁目のスーパー?
  僕がバイトしている店だ。
  こんな爺さん、客にいたっけ?
「一か月ほど前の話になるんだが、わたしはひどいものを見ちまってねえ」
  ひどいもの?いったい何を見たっていうんだろう?
  まあ、タダ酒を飲ましてくれるのだ。
  黙って話を聞いてみることにしよう。
「最近は本当にたちの悪い親子がいるもんだ。売り物の封を平気で破る子供、注意しない母親。そのままにして帰ってしまう。昔は自己申告して、親が進んで弁償し、子供を叱って二度とそんな迷惑な真似をしないよう躾をしたものだ。ところが今時分は……」
  そうだそうだ。
  袋を破るどころか、勝手に中身を食い散らかすガキだっている。
  それを買うんならまだしも、中身が半分以下になった菓子の袋をそのまま陳列棚に戻して、平然としている親だって珍しくない。
  全部食っちまったら万引きになるのだろうが、途中だとならないらしい。
  僕はバイトだから、商品管理について責任を負う立場ではないけれど、あんな客になすがままにされるのは腹が立つ。
  量販店や小売店は、ああいった損失の発生をあらかじめ計上して粗利や経常利益の目標を策定するらしいのだが、それ以前に、客のマナーが悪すぎると商品がかわいそうになる。
  この爺さんは、それを嘆いているのだろうか。
  店の関係者でもないだろうに、殊勝なことだ、と内心思っていると、
「ほらあ、お兄さん、惣菜のコーナーがあるじゃないですか」
  うちのスーパーの惣菜は目玉商品で、特にコロッケの人気は定評があった。
  あった、と過去形でいうのは……。
「一か月前、とんでもない小僧をみかけましてね」
  僕はギクッとした。
  まさか……。
「あのスーパーのコロッケは安くて美味しいからとても人気がある。特売日には山盛りのコロッケをお客さんが奪い合うように買っていくものだ」
  ところが、そのコロッケを素手で握りつぶした七~八歳くらいの男の子がいた。
  更に立て続けに床に投げつけたのである。
  そればかりか、積まれたコロッケをひっくり返し、足で踏んづけた。
  慌てた店の者が子供を押しとどめ、何食わぬ顔で傍観していた母親に詰め寄り、弁償するように要求した。
  ところがその母親は、
「子供のやったことで目くじら立てんじゃないわよっ!大体ね、こんなことされたくなかったら、全部パック詰めにして触れないようにしとけばいいでしょ!?」
  逆切れした挙句、子供の手を引いてさっさと立ち去ったのである。
  振り返った息子はゲラゲラ笑いながら、店員たちに向かってあっかんべぇをしてみせた上に、
「ばあか」
  とまで言い放った。
  その上母親は出口に向かう途中、買い物をしていた老女に向かって、
「邪魔なんだよ、このババア!」
  怒鳴り散らした。
  驚いた老女はカートごと横倒しになったのだが、母親は一瞥しただけでさっさと出て行ったのだった。
  店員たち一同、呆然として見送るほかはなかった。
  この事件には後日談がある。
  今日もそのせいで嫌な思いをして、その憂さを晴らしたいがためにこうして居酒屋で飲んでいたのだ。
  正社員たちとは、とても一緒に飲む気はしなかった。
  それほどみんな、カリカリしていたのだから。
「常識で考えれば、子供のやったことは親に賠償責任があるし、監視カメラで一部始終が録画されていたんだから、警察に威力業務妨害で告発することもできたはずなんですわい」
  そうだ。
  でも、上司はそれをやらなかった。
「食品衛生法に照らし合わせれば、店側も責任を免れないかもしれないからねえ。だから通報しなかったんだろうが、あの親子にはとことん腹が立ちましてなあ」
  憤懣やるかたない顔つきで老人は僕に、こう告げたのである。
「だもんでね、わたしゃあ、あの親子を喰らい殺してやったんですよ」
  僕は、一瞬きょとんとした。
  言葉の意味が理解できなかった。
「あの、い、今、なんて……」
「うん、だからね、あの母子をさ、四、五日前に喰い殺したんです。あ、わかりますか、喰い殺すの意味?」
  僕は自分の瞳孔があっちこっち彷徨うのを感じた。
  老人をまっすぐに見ることができなかった。
  しまったと思った。
  どうやら、イカれちまっている人に酒を奢ってもらっている。
  しかも今日、僕たちのスーパーには警察が捜査にやってきた。
  あの母子が行方不明になったというのだ。
「そんなこと言われても、あの後も買い物にいらっしゃってましたよ、何事もなかったかのように」
「いつまでですか?最後に見たのはいつ?」
「そんなこと聞かれても……。お客さんはあの親子連れの方だけではないですし……」
  お茶を濁して見せたが、嘘だ。
  あの母子が来るだけで、みんなぴりぴりしていた。
  あのふたりのためだけに、警備員を雇ったのだ。
  そして、真っキンキンの髪に鼻ピアス、全身タトゥーの父親を交えて三人で来店した時などは、もうレジのパートさんや食品の主任のおばさんなんかは、あまりのストレスに業務中に倒れそうになったくらいだ。
  まさに、魔王の降臨にも等しかったのだ。
  それでも我慢した僕たちスーパーの店員側は、神様からご褒美を頂きたいくらいに偉かったと思う。
  そうそう、あの父親は男性社員を掴まえて因縁も吹っかけたことがあったのだ。
「オマエんとこのスーパーはよぉ。うちのガキに脅しかけたって女房から聞いたんだが、そうなんか?おおおっ!どーなんだよぉっ!」
  とんでもない言いがかりだった。
  滅相もないと否定した社員は、
「メッソーってなんだ!バカにしてんのかあ?」
  相手の怒りを増幅させてしまった。
  どうやら滅相もないという言葉すら知らなかったバカらしい。
  それはさておき、その親子がいなくなってしまったらしい。
  誰が警察に届けたのかは知らないが、うちのスーパーでトラブルを起こしたことが知れ渡っていたらしく、今日は従業員もアルバイトも全員、取り調べを受けた。
(このジジイは、それを知ってて僕に嫌がらせを言っているのか?)
「とんでもない言いがかりだなあ。わたしはそんな嫌がらせをするようなことはしない」
  いかにも心外だという表情の老人に、僕は息を呑んだ。
  なぜだ。
  この年寄りは、心の中が読めるというのか?
「今の話が作り話じゃない証拠を見せようじゃないか」
  老人は内ポケットからスマホを取り出した。
  そして軽やかな指先でディスプレイを扱っていたかと思うと、僕に画面を見せ、
「ほら、この動画をみたまえ」
  突き出されたスマホの画面を目にした僕は、ボディーブローを喰らった気がした。
  そこには、見覚えのある子供の顔があった。
  コロッケをめちゃくちゃにした、あの男の子だ。
  その横顔を撮影している。
  彼の前には、今目の前にいる老人が座っている。
  いったい、誰が撮影しているのだ?
「そりゃ決まってる。この子の母親じゃて」
  読んでる。僕の心を本当に読んでる。
  男の子の顔は、とても幼児とは思えないほどに邪悪に歪んでいて、この世のすべてを憎んでいるように見えた。
  その子供に向かって、老人が真顔で、何事かを喋っている。真剣な眼差しだ。
  と……。
  突然、男の子が、とんでもない態度に出た。
  老人に向かって、アッカンベェをしたのだ。
  その刹那。
  胡坐を掻いた老人の右手が、子供の顎を下から真上に殴り上げた。
  カメラのレンズは、その瞬間を克明に捉えていた。
  小さな肉片が、宙を舞った。
  子供の口から、夥しい血が吹き毀れた。
「べろを自分の歯で噛み切ってしまったのですなあ」
  両手で口元を抑えながら、幼児は悶絶して蹲った。
  老人はその肢体を次々と引きちぎり、口に入れて咀嚼し、呑み込んでいくさまが、動画の中に収められている。
「母親は金縛りにあっていましたからな。固まってカメラを持っていました。え?こんなことして、近所に聞こえなかったかって?そりゃあ聞こえたでしょうが、元々このうちは親が常日頃から、子供を虐待して泣き喚かせていましたからな。近隣もその夜ばかりは、またか、と思ったようですわい」
  僕はもう、言葉もなかった。
  スマホの中で、あのたちの悪いガキが、無残に引き千切られ、老人の口に呑み込まれていく様を、ただ黙って見つめていた。
「母親もその後喰ろうてやりましたよ。あの金髪の亭主は、部屋の惨状を目の当たりにして、悲鳴を上げながら逃げてしまいました。まったく、自分の妻子を助けようともせず。なんとも身勝手な男でなあ。いわゆる、ただセックスがしたいだけのために結婚した男なんじゃろかのう」
  老人は僕に、最後にこう言った。
「お前たち、あの散らかったコロッケをゴミにしてしまったなあ。食い物を粗末にしてしまうのは、よくない、良くない」
  僕は胸中で叫んだ。
(だからって、僕があんたに何かしたか?そもそも、あんたは誰で何者なんだよ?)
  すると…。
「わたしかね。おほん。わたしは、いわゆる、神様じゃ。食べ物の」
  と笑った。
  凄まじい笑いの顔だった。
「こんど食べ物を粗末にしたら、どんなことになるかのお」
  さてと、と立ち上がった老人は、
「ほれ、飲み代じゃ」
  と僕の前に数枚の紙幣を置き、
「嘘のような話だから、別段無理して信じてくれなくともよい。ただ、あのスーパーの関係者の何人かに、話して聞かせたかっただけでの」
  ほっほっほっ
  と嗤いながら店を出て行った。
  僕は慌てて立ち上がり、店員に、
「い、今出て行った爺さん、よく来る人?」
  訊いた。だが、
「爺さん、ですか?」
  と首を傾げたのみだ。
  そして今日の昼間、店に呼び出された件を思い出していた。
  訪れた警察官が、あの金髪の若い父親のことで訊きこみをした。
  山林で謎の死を遂げていたこと、自宅は血だらけで、妻子の姿がなかったこと。
  スーパーでトラブルを起こした時の状況を根掘り葉掘り聞かれたのだった。
  今夜の老人から聞かされた話を、警察にするべきなのかどうか。
  僕は絶対に話さないと心に固く決めた。
そして一日も早く、あのスーパーでのアルバイトを辞める決心をしたのだ。