第撥拾肆夜
不可抗力
「六年前」
突然老婆は切り出した。
「あんた、N県の……」
以前住んでいた土地の名前を聞かされた私は、何の躊躇もなく、
「ええ、確かにその町に住んでいました。仕事の転勤でね。それが何か?」
老婆は藪睨みの目線を私に釘づけにして、
「六年前の八月二十九日、覚えていなさるか」
「八月二十九日?」
六年前の今日、ということらしいが、特段の記憶はない。
きっと平日だろうから、仕事で車を走らせていただろう。月末近いから取引先の間を飛び回っていたのではないだろうか。
「覚えていないようだから、思い出させてやるよ。六年前の真昼間、あんたは物凄いスピードでS町の田んぼの中の道を走っていた。農免道路を」
そんなこともあっただろうか?
私は地方都市の小売店などの営業も担当していたので、よく近道をするためにショートカットできるような細い道を走っていた。
対向車に出会うことは少ないし、人も殆ど歩いていない。
それなのに舗装はしっかりしていて、農業専用道路にしておくのは勿体ないくらいだった。
都心に戻ってきた今となっては、懐かしい光景だ。
「あんたはそこで、数人の子供たちと行き違ったはずだ」
そんなこともあっただろうか?
まったく覚えていない。
「その中に、あたしの孫がいてね。ひどい運転のあんたの車に恐れをなした子供たちは、細い道路から飛び降りたんだよ」
私は眉を顰めた。
「なにをおっしゃりたいんですか、おばあさん。私は人身事故なんか起こしていませんよ」
老婆は冷ややかに、
「誰が事故を起こしたなんていった。話はまだ途中なんだから最後まで聞けばいい」
会社に乗り込んできて何の話かと思えば。
いささか憤慨しかけた私だったが、他の来客や社員たちの目もある。
話を最後まで聞くことにした。
「その時に、子供たちが折り重なって倒れた。孫はそれで足首に怪我を負ったのさ」
車にぶつかったわけではない。
だが、
「怪我をしたのはあんたの乱暴な運転のせいだ。孫娘はかわいそうに、その時の怪我が元で、二学期に入ってすぐ、学校を休む羽目になったばかりか、大事な筋たか腱だかを痛めていたもんで、大きな病院に入院しなきゃならなくなったんだ」
まったく記憶にはなかったが、そういわれると子供が路側にいたことがあたかもしれない。
「そ、それはお気の毒に。しかし、私にはまったく覚えがないんですがね」
「自分が痛い目にあったわけじゃないんだから、覚えていないんだろうよ。孫は通院のために毎日父親か母親が送り迎えしていたんだが、ある日どうしてもふた親が外せなくてね。仕方なくあたしが孫に付き添ってバスで病院に行った。そんな日に限って大雨で……」
バス停で降りた孫娘は、祖母の見ている目の前で、スリップして突進してきた自動車に弾き飛ばされたのだ。
「病院に行ってて、さらに大けがするだなんて、どれだけ不幸なことだろうよ」
老婆の深く皺が刻まれた双眸から、いきなり涙が溢れだし、私は心中ドキッとした。
急に罪悪感に襲われた。
「そ、そりゃ大変だったね、おばあさん。だけど、その二度目の交通事故は、私とは関係が……」
「そもそもっ!」
老婆の泣き濡れた両目は、怒りの炎が滾っている。
「あんたが農免道路なんかを飛ばすから悪いんじゃないかっ!あの道路はね、あたしら農家の者が仕事をやりやすくするために、税金だけじゃ足りねえから、農家のみんなでお金を出し合って、市や町にお願いして整備してもらったもんだっ!子供の通学にも使えるように。あんたら都会から来た農家に関係のないもんが、いい気になって車を暴走させるために整備したもんじゃねえんだわ!」
老婆の絶叫に等しい言葉は、周囲の人々に少なからぬ驚きを与えた。
私は途端に居心地が悪くなり、
「ちょ、ちょっとおばあさん、応接室に入りましょう。ここじゃなんだから」
「なぜここにいちゃ悪い?!あたしゃここでいい!」
「いや、その、だからお茶でも……」
「あんたなんかに茶を貰いたいとは思わん!」
あまりの頑迷さに、さすがに私は苛立ち、
「いい加減にしてくれっ!あんたの話は、ただの言いがかりじゃないかっ!そもそもあの道路を走ったのが悪いだなんて!だつたらよそ者通行禁止とでも書いておきゃあよかったんじゃないのかっ!大体ね、あんたの話はまるで風が吹いたら桶屋が儲かるみたいな詭弁だよ、詭弁。お孫さんが怪我したのだって、不可抗力じゃないか。私には何の責任もありませんよっ」
吐き捨てた。
ところが、老婆は両目を大きく見開き、
「それだ」
「それだって、何が?」
「警察も、みーんな、そういうだよ。不可抗力、不可抗力。わざとじゃないって。何がわざとじゃないだ。あんたの運転が最初の原因で、孫は六年間病院で寝たきりになった挙句、今年の春、桜が咲くのを待たねえで、あの世に行っちまったよ!」
周囲の視線はすべて、私と老婆に注がれている。
「不可抗力なら、泣き寝入りしろってか!そんなこと、許されていいとでも思っているかっ!」
怒りの収まらないらしい老婆は、散々悪態をつき、大声で泣きながら出て行った。
私は呆然と、その後ろ姿を見送った。
席に戻った私を待っていたのは、
「課長、奥様からお電話です」
妻の声がうわずっていた。
「あなた、敏也が!」
息子が交通事故にあったのだ。
慌てて駆け付けた病院では、妻の頽れた姿があった。
警察官の話では、歩道の端で友達とふざけていた息子が、誤って道路に滑り落ちたらしい。
通りかかった車は、
「状況的に、避けるのは難しかったみたいですなあ。法定速度も守られていましたので」
気の毒だが、不可抗力としか言いようがないという。
私は言葉を失った。
不可抗力
「六年前」
突然老婆は切り出した。
「あんた、N県の……」
以前住んでいた土地の名前を聞かされた私は、何の躊躇もなく、
「ええ、確かにその町に住んでいました。仕事の転勤でね。それが何か?」
老婆は藪睨みの目線を私に釘づけにして、
「六年前の八月二十九日、覚えていなさるか」
「八月二十九日?」
六年前の今日、ということらしいが、特段の記憶はない。
きっと平日だろうから、仕事で車を走らせていただろう。月末近いから取引先の間を飛び回っていたのではないだろうか。
「覚えていないようだから、思い出させてやるよ。六年前の真昼間、あんたは物凄いスピードでS町の田んぼの中の道を走っていた。農免道路を」
そんなこともあっただろうか?
私は地方都市の小売店などの営業も担当していたので、よく近道をするためにショートカットできるような細い道を走っていた。
対向車に出会うことは少ないし、人も殆ど歩いていない。
それなのに舗装はしっかりしていて、農業専用道路にしておくのは勿体ないくらいだった。
都心に戻ってきた今となっては、懐かしい光景だ。
「あんたはそこで、数人の子供たちと行き違ったはずだ」
そんなこともあっただろうか?
まったく覚えていない。
「その中に、あたしの孫がいてね。ひどい運転のあんたの車に恐れをなした子供たちは、細い道路から飛び降りたんだよ」
私は眉を顰めた。
「なにをおっしゃりたいんですか、おばあさん。私は人身事故なんか起こしていませんよ」
老婆は冷ややかに、
「誰が事故を起こしたなんていった。話はまだ途中なんだから最後まで聞けばいい」
会社に乗り込んできて何の話かと思えば。
いささか憤慨しかけた私だったが、他の来客や社員たちの目もある。
話を最後まで聞くことにした。
「その時に、子供たちが折り重なって倒れた。孫はそれで足首に怪我を負ったのさ」
車にぶつかったわけではない。
だが、
「怪我をしたのはあんたの乱暴な運転のせいだ。孫娘はかわいそうに、その時の怪我が元で、二学期に入ってすぐ、学校を休む羽目になったばかりか、大事な筋たか腱だかを痛めていたもんで、大きな病院に入院しなきゃならなくなったんだ」
まったく記憶にはなかったが、そういわれると子供が路側にいたことがあたかもしれない。
「そ、それはお気の毒に。しかし、私にはまったく覚えがないんですがね」
「自分が痛い目にあったわけじゃないんだから、覚えていないんだろうよ。孫は通院のために毎日父親か母親が送り迎えしていたんだが、ある日どうしてもふた親が外せなくてね。仕方なくあたしが孫に付き添ってバスで病院に行った。そんな日に限って大雨で……」
バス停で降りた孫娘は、祖母の見ている目の前で、スリップして突進してきた自動車に弾き飛ばされたのだ。
「病院に行ってて、さらに大けがするだなんて、どれだけ不幸なことだろうよ」
老婆の深く皺が刻まれた双眸から、いきなり涙が溢れだし、私は心中ドキッとした。
急に罪悪感に襲われた。
「そ、そりゃ大変だったね、おばあさん。だけど、その二度目の交通事故は、私とは関係が……」
「そもそもっ!」
老婆の泣き濡れた両目は、怒りの炎が滾っている。
「あんたが農免道路なんかを飛ばすから悪いんじゃないかっ!あの道路はね、あたしら農家の者が仕事をやりやすくするために、税金だけじゃ足りねえから、農家のみんなでお金を出し合って、市や町にお願いして整備してもらったもんだっ!子供の通学にも使えるように。あんたら都会から来た農家に関係のないもんが、いい気になって車を暴走させるために整備したもんじゃねえんだわ!」
老婆の絶叫に等しい言葉は、周囲の人々に少なからぬ驚きを与えた。
私は途端に居心地が悪くなり、
「ちょ、ちょっとおばあさん、応接室に入りましょう。ここじゃなんだから」
「なぜここにいちゃ悪い?!あたしゃここでいい!」
「いや、その、だからお茶でも……」
「あんたなんかに茶を貰いたいとは思わん!」
あまりの頑迷さに、さすがに私は苛立ち、
「いい加減にしてくれっ!あんたの話は、ただの言いがかりじゃないかっ!そもそもあの道路を走ったのが悪いだなんて!だつたらよそ者通行禁止とでも書いておきゃあよかったんじゃないのかっ!大体ね、あんたの話はまるで風が吹いたら桶屋が儲かるみたいな詭弁だよ、詭弁。お孫さんが怪我したのだって、不可抗力じゃないか。私には何の責任もありませんよっ」
吐き捨てた。
ところが、老婆は両目を大きく見開き、
「それだ」
「それだって、何が?」
「警察も、みーんな、そういうだよ。不可抗力、不可抗力。わざとじゃないって。何がわざとじゃないだ。あんたの運転が最初の原因で、孫は六年間病院で寝たきりになった挙句、今年の春、桜が咲くのを待たねえで、あの世に行っちまったよ!」
周囲の視線はすべて、私と老婆に注がれている。
「不可抗力なら、泣き寝入りしろってか!そんなこと、許されていいとでも思っているかっ!」
怒りの収まらないらしい老婆は、散々悪態をつき、大声で泣きながら出て行った。
私は呆然と、その後ろ姿を見送った。
席に戻った私を待っていたのは、
「課長、奥様からお電話です」
妻の声がうわずっていた。
「あなた、敏也が!」
息子が交通事故にあったのだ。
慌てて駆け付けた病院では、妻の頽れた姿があった。
警察官の話では、歩道の端で友達とふざけていた息子が、誤って道路に滑り落ちたらしい。
通りかかった車は、
「状況的に、避けるのは難しかったみたいですなあ。法定速度も守られていましたので」
気の毒だが、不可抗力としか言いようがないという。
私は言葉を失った。