第撥拾参夜 

 ひまわり
  
  群生しているヒマワリが、一斉にこっちを向いた。
  リエコは目を剥き出し、絶叫を上げた。
  逃げ出そうとしたが、脚が動かない。
  地面に縫い付けられたかのように。
  花が、黄色い顔になっている。
  すべての花が、同じ顔をして、リエコを向いてゲラゲラ笑っているのだ。
  覚えのある顔だった。
  
  ガバリと跳ね起きると、凄まじい寝汗を掻いていた。
  荒々しい呼吸が、なかなか落ち着かない。
  ノロノロと起き上がり、窓際まで歩いた。
  カーテンを開けると、突き刺すような光が天空から降り注いでいた。
  地面を覆うような家々の屋根を睥睨しながら、リエコは勝者の笑みを頬に浮かべた。
  いつもなら、つまらない悪夢のことなどすぐに脳裡から払拭されてしまっていたはずだ。
  だが今日に限って、
(なんだろう、頭から離れない……)
  
「おはようございます」
  事務所の社員たちは一斉に立ち上がり、出社してきたリエコに頭を下げた。
「おはよう。みんな仕事を続けながらでいいから聞いてちょうだい」
  
  社員たちの表情を思い出し、リエコはクルーザーの中でほくそ笑んだ。
  彼らに休みはない。
  しかし、社長である自分だけは豪華クルーザーで海上での贅沢なバカンスを楽しむ。
  皆、文句ひとつ言わず、
「お気をつけていってらっしゃいませ」
  と頭を下げた。
  内心は、はらわたが煮えくり返っていることだろう。
  それがリエコには楽しく、嬉しくて仕方がない。
(ブラック企業のどこが悪い?厭なら今すぐに辞めればいいじゃない)
  留守中にクーデターが起こることなど、決してありえない。
  その程度の危機管理は十分に実施してあるのだ。
  リエコは、能力はあるにも関わらず、組織に適応できないで社会の底辺で喘いでいる人間ばかりを選んで採用した。
  それこそ彼女を、彼らは、
「救いの神」
  と称賛したのだ。
「それが、私の手、だったのよ」
  長年、派遣社員として幾多の企業を渡り歩いた彼女が学んだのは、
「人間のコントロール」
  だった。
  長期に渡る深刻な不況の時代を切り抜けてきた彼女は、いかにして企業の上層部があくどく人間を操作するかを観察し続けた。
  そして、力のある男を利用する術も手に入れたのだ。
(男はバカ。本当にバカ。女は金や権力でいくらでも言いなりになると思っている)
  笑いが止まらなかった。
  見渡す限り、真っ青な、そして透き通った穏やかな海が続いている。
  遥かな砂浜で、入水するレミングのようにごった返している人間たちの群れが、
  安物のアニメの背景にしか見えず、さらに嗤いに拍車がかかった。
(会社に戻るのは三日後。そのときには、生贄が決まっている)
  成果の出ていない者は、容赦なく切り捨てると言い置いて出てきた。
  今頃彼らは、戦々恐々として働いているだろう。
  それでも順位はつく。
  最下位の社員は切る。
  見せしめは重要だ。
  ただの競争ではどうしてもマンネリ化し、社員同士が馴れ合う。
  それがリエコには気に入らなかった。
  馴れ合いが発生すれば、クーデターへと発展する礎を築くことになる。
「社員たちは、みんな敵同士でいいのよ。生き残るのは、わたしひとりだけなのだから」
  皆があくせく働いているであろう時間、リエコは悠々とシャンパンを喉の奥へと注ぎ込んでいた。
  至福の時。
  
  突然、船が揺れた。
  気のせいかと思ったが、やはりぐらぐらしている。
  そう舵手を呼んだが、返事もない。
「どうしたのよ、いったい」
  渋々ソファから立ち上がったリエコは、操舵室へと向かった。
  元々は仕切りなどなかったのだが、特注で作らせたものだ。
  いない。
  操舵室は蛻の殻だ。
  甲板を一周したが、彼女以外に乗り込んでいるはずの三人の姿がどこにもない。
  見回してみると、さっきまで見えていた陸地も見えなくなっていた。
「ど、どういうこと?」
  彼女は、船舶免許を持っていない。
  金で人を雇えばいいのだから、自分で操縦する必要などないと思っているからだ。
  それに、権力があれば人を支配できる。
  有事の際、などという発想はなかった。
  危機管理は、会社内部だけで必要なものだったはずだ。
「どうして?いったいあいつら、この海の上でどこに行っちゃったっていうのよっ!」
  ドレスの裾を自分で踏んづけ転んだ拍子に、手すりに激しく鼻を撃ちつけたリエコは、軽い脳震盪を起こし、甲板に倒れ伏した。
  朦朧とする意識の中、なんとか立ち上がろうとすると、顔に冷たい水が降り落ちてきた。
  一転俄かに掻き曇り、空は悪意を抱いてでもいるかのように暗雲に覆われた。
  遠雷と共に、雨は激しさを増した。
  必死で這いながら船室に逃げ込んだリエコは、ドアわ閉じ、シーツを頭まで被った。
  震えながら、鼻の痛みに耐えていたが、半ば自暴自棄に濃いリキュールをがぶ飲みした。
  緊張と恐怖が、どう作用したのかはわからない。
  リエコは昏倒した。
  
  気が付くと、船の窓から眩い光が差し込んでいた。
  頭は倦んだようで、何を考えていいかすらもわからない。
  ノロノロと立ち上がり、船室を出てデッキに向かった。
「ど、どこ?、ここ、どこよ」
  白砂の上だった。
  嵐に巻き込まれて、打ち上げられたのかと思ったが、違う。
  四方八方、どこを見回しても海などない。
  その代わり、砂の広場の外側が、ひまわりで囲まれていた。
  見渡す限り、際限なく、どこまでも続くひまわり畑?
  そんなものが、この世にあるのか?
  遠く遠く、視界の届く限り、黄色の花で埋め尽くされている。
  風にゆらゆら揺れる、大輪のひまわりの花。
  風?
「風なんか、吹いていない」
  ひまわりは、何故揺れているのか、リエコは不思議に思った。
  が、次の瞬間理由がわかった。
  ひまわりたちは、揺れているのではなく、移動しているのだ。
  ゆらゆらと、ゆっくりとだが、リエコの乗ったクルーザーに向かって、確実に進んできていた。
  そのうち、どこからともなく、哄笑が起こり始めた。
  それは次第に伝染し、すべてのひまわりの群れから、発せられ始めた。
  げらげらと。
  野卑極まりない。
  最前列のひまわりがクルーザーの下に辿り着いたかと思うと、その花がゆっくりと上を向いた。
  リエコは慄然としてデッキで尻餅をついた。
  ひまわり真中が、顔だった。
  見たことのある顔。
  誰だったか思い出せないが、明らかに自分を憎んでいる表情だ。
「な、なんで、なんで」
  ひまわりたちはリエコを取り囲み、てんでに大笑いしている。
  その声が、景色の遠く向こうまで続いていてあまりにもやかましく、耳鳴りがし、頭が割れそうに痛かった。
「これは夢よ、夢に決まっている」
  両手で耳を塞いだが、哄笑は頭の中に直接殴りこんでくる。
  気が狂いそうだ。
「なぜ?わたしのバカンスは、いったいどうなったの?」
  その問いに対する返事はない。
  ただ醜く顔を歪めたひまわりの男たちが、ただただ大声で喚くように笑っているだけだ。
  休暇に入る前に見た夢を、ようやく思い出したリエコだが、その男が誰なのか、たぶん金のために騙した男の一人なのではないか、と思うのだが、具体的に誰かは思い出せなかった。
「いつまで続くの?いったいいつまで?なんでこんな目に合わなきゃなんないのよーーっ!」
  
「クルーザーのデッキで飲み過ぎて熱中症だってさ」
「意識、まだ回復してないなんて、重症よねえ」
  リエコに身内はいないことを、社員たちは全員知っていた。
「このまま、目を覚まさなきゃいいけど」
「なあ」
「でもさ、そしたらこの会社はどうなるの?」
「役員会があるんだから、なんとかなんじゃない?」
  意識不明のリエコを見舞うものはいなかった。
  役員会で新社長が決定し、株主の承認が得られれば、リエコの生命を維持している機器類は、速やかにスイッチを切られるだろう。