第漆拾撥夜
  
  瞼の裏の
  
  最初は、夢かと思ったのだ。
  二人きりの寝室。
  何年間もそうだった。
  その寝室に、僕たち以外に三つの人影が見えた。
  はっとして目を開くと、薄暗い寝室の中に人は誰もいない。
  僕がベッドの端に座っていて、妻がぐっすりと眠りこけている。
  僕が座っていたのは、奇妙な夢に苛まれて目が覚め、すぐに横になれないくらいに肩や背中が張っていたからだ。
  夢のせいで、筋肉に無駄な力でも入ったのか、眠くて痛くて、座ってうな垂れて、目を閉じた瞬間に、三つの影が見えたのだ。
  再び目を閉じて、背筋がぞくりとし、首から頬にまで、鳥肌が駆け上がってきた。
  夢ではない。
  目を閉じると三つの人影が、部屋の中に見えた。
  ひとつは蹲り、ひとつは突っ立って首を垂れ、ひとつは僕の枕の横に屈んでいる。
  暗くて顔はまったく見えない。
  だが、シルエットから推測するならば、みんな下を向いている。
  僕は凝然として瞬きを繰り返した。
  閉じるたびに影が見え、開くと消える。
  奇妙なフラッシュ動画、静止した動画でも見ているかのような。
  窓が明るくなった。
  影は消えた。
  そしてようやく、体が動くようになっていることに気がついた。
  僕は座ったまま、金縛りにあっていたようだ。
  
  このことは、妻には黙っていた。
  彼女には見えていないようなのだから、わざわざ教えて不愉快な思いをさせる必要もない。
  最初は夜中や未明にしか見えていなかった影が、最近では昼間でも室内なら見えるようになった。
  リビングでテレビを見ていたら、その真横に膝を抱えて座り、こっちに背中を向けている男の影が瞼の裏に映った。
(やれやれ)
  恐怖心はないものの、うんざりした気持ちは払拭できない。
  僕は目を閉じたまま男の影の傍に近づいてしゃがみこんだ。
  そして、
「なんでうちにいるんだ。あんたは、誰だ?」
  訊いた。
  しばらくそのまま待ったが、返事はない。
  それでも僕は男の前にしゃがんだままでいた。
  すると、男は立ち上がり、目の前の僕の存在を意に介する様子もなく、静かに、滑るように立ち去ってしまった。
  彼にとって僕は、いないのと同じだったのか?
  だって、突き抜けていったのだ。
  慌てて振り向くと、影はベランダに出てそのまま、空中へと歩き去った。
  そして瞬く間に見えなくなってしまった。
  空中に溶けてしまったかのように。
  光の加減のせい、だったのか?
  
  毎日見えるわけではないが、見える頻度は増えてきた。
  そして気がついたことは、うちが彼らの溜まり場になっているわけではなく、単なる通り道で、休憩所のようになっているだけではないのか、ということだ。
  影になっているから、顔は見えないし当然表情を窺い知ることもできない。
  しかし、最近は少しずつ、影の個性が把握できるようになった気がする。
  男女の区別が把握できたり、太っているとか、背が高いとか、まあ簡単な区別だが、どれも同じにしか見えなかった最初のころに比べれば、多少は進歩した、といったところか。
  僕は既に気がついていた。
  彼らは、死せる存在なのだ。
  生きてはいない、いわば魂魄、有体に言ってしまえば、彷徨える霊魂、とでも言うべき存在なのだと。
  だが、怖くはない。
  それには理由があって、人が幽霊を怖がるのは、恨まれ、祟られるかも知れないという不安や恐怖があるからだ、と以前どこかの寺の住職に聞いたことがあるからだ。
「幽霊だって、のべつまくなしに祟るわけではないでしょうよ」
  と住職は笑ったのだった。
  恨みを持たれるようなことが身に覚えなければ、そっとしておいてやるがよかろうと。
  なるほど、言われて見ればそうなのかもしれない。
  開いて構わず誰にでも祟るような幽霊が、絶対いないとは決め付けられないのかも知れないが、そんなタイプは、
「浮遊してお宅にお邪魔するようなこともありませんでしょうよ」
  住職の話によれば、どこぞの土地や場所に縛られて、彼の地に来た者をのべつまくなしに祟り呪う怨霊でない限り、さほどの心配はするなということらしい。
  考えて見れば、寺は幽霊の集合住宅であったとしてもおかしくはない。
  だが、ほとんど見ることはないという。
  皆、手厚く葬られ穏やかに成仏しているから、未練や怨嗟怨恨とは無縁なのだという。
  だから僕は、
「ここは単なる通り道で、皆行くべきところへと向かう途中なのだ」
  と思うことにしたのだった。
  
  そうも言っていられなくなったのは、今朝のことだった。
  明らかに、今までと違う奴が、僕の枕元に立っていて、顔を覗き込んでいたのだ。
  悲鳴を上げそうになったが、かろうじて堪えた。
  いつもは影だったのに、顔がくっきりと見え、その、なんというか、違うのだ。まるで違うのだ。
  生きている人間とは、どこか根本的に違う表情をしているのだ。
  正に、あれを死相というのだろうか。
  目を閉じると眼前にいる。
  つかみかからんばかりの勢いと、あまりにも近すぎる距離に、僕は激しい戦慄を覚えた。
  だが、その人物、たぶん女性だと思うのだが、彼女は何かを僕に告げようとしていた。
  もう、仕方ないのだ。
  僕は必死で我慢し、詰め寄る女の幽霊と、瞼の裏で対峙した。
  そして、彼女の必死な、いや、もう死んでいるのだから、必死というのもおかしいか。だが、なんと言えばいい?切実な?
  とにかく、そんな真摯な訴えに応えるべく、唇を睨みつけて読解しようと試みたのだ。
  
  唇を見詰めているうちに、彼女が僕に、何を訴えているのかが分かりだした。
  僕はそれをメモした。
  なにしろ声がないのだから、口の形だけで判断しなくてはならない。
  妻に内緒だったので、極めて面倒な作業だった。
  しかし四日ほど経って、僕はメモの内容を女の幽霊に話して聞かせ、書き記した物も見せた。
  女はじっと目を凝らしてメモを読んでいたが、読了して後、納得したかのように何度も何度も頭を縦に振り、畳に頭を擦り付けるようにお辞儀したかと思うと、安心したかのような表情で、ベランダに浮いて行ったかと思うと、ふうっと空中に掻き消えた。
  
  このメモをパソコンに入力し、プリントアウトした。
  その後データは消去し、指紋が残らないように印刷したコピー用紙を折り畳み、手袋をしたまま封筒に入れて、女が僕に頼んだ宛先に手紙として出した。
  その手紙の行く先で、受け取った人物がどうするかは、僕にはわからない。
  だが、とてつもない不安に駆られるだろうことは想像できた。
(忘れよう)
  もう二度とあの女が僕のところに現れることはあるまい。
  それからも頻々と我が家は霊の通り道としての役割を果たしたが、僕は気にしないようにし、顔を覗き込むような無粋な真似もしないようにした。
  そして手紙のことも忘れてしまった。
  ところが、否応なしに、手紙のことを思い出さなくてはならない日が来た。
  そのニュースを目にしたのは、夕餉の後、妻の淹れてくれた茶を啜り、くつろいでいたときのことだった。
  名前に聞き覚えがあると思ったら、僕が書いた宛名書きの男性。
  その男が、近所に住む人物を殺害し、自らも自死しようとして未遂に終わったのだ。
  理由はわかっている。
  あの女が僕に告げた内容から判断すると、宛名の男性は復讐を遂げたのだ。
  責任を感じずにはいられなかったが、それより、あの手紙からもしも僕のことがわかってしまったとしたら。
  指紋や証拠になるものは、何一つ残していないはずだが、警察の捜査能力は僕たち素人の想像の域を遥かに超えている。
  だからといって、僕が警察に出頭して手紙のことを話したとしても、どうして事情を知っていたのか訊かれても答えようがない。
  日々不安を抱えながら暮らすしかなかった。
  ああ、なんてことになったんだろう。
  悩んで元気をなくしている僕に、妻が突然言った。
「気にしなくていいのよ。あなたは頼みをきいてあげただけ。それに、しばらくしたらきっと、お礼も頂けるわよ」
  唖然とした僕は、
「し、知ってたのか?」
  妻はにこやかに、
「知ってるも何も、わたしは前から彼ら彼女らのお手伝いをしてるのよ。お陰で、うちは意外に裕福でしょ?一人じゃ大変だから、あなたにも手伝ってもらえるようにしただけよ」
  なるほど、そういうことだったのか。
  確かにうちの内証は、僕稼ぎの割には裕福だ。
「そろそろ、またお客様がみえるはずだから」
  妻はそう告げて、にっこりと微笑んだのだ。