第漆拾伍夜
  
  白い夜
  
  やけに明るく見える夜なのは、分厚く降り積もった雪が僅かな光を乱反射させているからだった。
  満夫の足跡が背後から追いかけてくるように続いている。
  振り返って自分の痕跡を見詰めながら、満夫は言い知れぬ不安を感じた。
  首を激しく横に振って、
(これは、自分の足跡じゃないか)
  心の中で自分に言い聞かせてみる。
  すると、
(本当にそうなのか?お前の足跡なのか?)
  心の中に、そう問いかけてくる声がある。
(まただ)
  この声が曲者なのだ。
  思わず今来た道を駆け戻った満夫は、表面に積もった柔らかくさらさらした粉雪に足を取られ、
「ああっ!」
  悲鳴を上げながら転倒した。
  肘をついたのがいけなかった。
  激痛が頭頂部に突き抜け、両目から噴き出した涙が瞬時に凍てつく。
  雪の下は凍りついていて、鉄板みたいに硬い。
(厄介だ、実に厄介だ)
  痛みはなかなか退かず、左肘を右手で押さえ、呻き声を上げながら再び満夫は歩き出した。
(この方向でいいのか?今歩いて向かっている方へ、本当に行ってもいいのか?)
  また心に語りかけてくる。
  さっきよりも更に強い口調で、半ば詰るように問いかけてくる。
(いいのか、本当にいいのか?)
「いいんだよっ!」
  思わず叫んだ満夫は、はっとして周囲に視線を巡らせた。
  住宅街の路地だが、自分以外に誰一人として歩いている者がいないのを確認し、満夫はほっと胸を撫で下ろした。
  雪中で転んだり叫んだりしているところを、近所の住民にでも見られでもしたら、いったいどれだけ恥ずかしいことか。
(心配するな、お前のことを認識している住民など、ただのひとりもいやしないさ)
  まただ、いい加減にしてくれ、と満夫は頭を抱えて蹲った。
(多かれ少なかれ、人は他人のことを気にして生きているなんてことはない。他人のことばかり考えている人間がいるとしたら、恋愛中毒になってる思春期のガキか、特定のタレントや俳優女優のことしか考えられないマニアック、偏執的躁病患者か、そんな連中くらいのものさ。ちなみに言えば、子供や親のことばかり考えてほかのことが考えられない奴も、一種のマニアックだ。子離れができない親、親離れができない子、どちらも偏執狂でしかない。マザコンの男は結婚しても絶対にうまくいかないだろ?ファザコンの女もそうだ。最初から結婚なんかしなきゃいいのに、新しい自分発見にチャレンジして頓挫してしまうんだ。滑稽なもんだな)
  心の声は、いつにも増して饒舌で、満夫を混乱させようとしているかのようだった。
「もういい、分かったから。俺の邪魔をするのはやめろっ」
  立ち上がった満夫は、口を真一文字に結んで突進していくかのように歩き出した。
  いつの間にか、再び雪が降り出している。
  その勢いは凄まじく、伸ばした手の指先が白い粒粒のカーテンに遮蔽されているかのように見え隠れする。
(このまま歩いても、どこにも行きつけはしないのだぞ、そんなことも分からないのか、愚かな奴)
  満夫は左手で胸を押さえ、右手で口を押さえた。
  思わず吐き気を催した。
  胸の辺りで嘲笑がこだましているような気がしたのだ。
「毎日こんなことが続くんじゃ、俺は、もう生きていても仕方ねえじゃねえか」
  えずき続けている不快感を胸に抱えたまま、満夫はそれでも前に向かって歩いた。
  今夜は、どうしても今夜だけは後戻りできない。
  高まったものは限界に達していた。
  いや、限界を超えていたはずだ。
  心の声のせいで、不本意な忍耐を強いられてきた現実。
「いつまでも、我慢し続けることができるもんじゃないんだ」
  右足の太ももを右手で、左足の太ももを左手で、鷲掴みにして引きずるように歩く。
  食い縛った歯の隙間から漏れる息が、白い湯気となって目の前に立ち上ると、それをスクリーンにしたかのように何かの影が見え隠れした。
  それが、心の中の声の正体のような気がして、満夫は腹の底に沸き出でる憤怒から、
「俺の行く手をなぜ邪魔するっ」
  激しく毒づいた。
  すると、
(邪魔?邪魔をしているのではないがな。俺がお前に語りかけているのは、お前が語りかけて欲しいと願っているからだ。誰も相手をしてくれない、気の毒なお前のために、俺は話しかけてやっているのだがな。よく考えて見ろ。お前は、俺が話しかけてやらなかったら、いったい誰と会話するのだ?相手は皆無ではないか。お前、この一ヶ月の間に、誰と話した?何人と話した?答えて見ろ)
  言いがかりではないか、と心の裡の声は、あからさまに不本意だといわんばかりの声音で満夫を非難しつつ、
(俺は、お前が憎くて言っているわけではなんだぞ。分かるか?分かるよな。お前のためを思って言っているんだ)
  今度は恩着せがましく続けた。
  鬱陶しい、なんて鬱陶しいんだ。
  毎日、ひっきりなしに続くこの声のせいで、満夫はどれだけ心を掻き乱されていることか。
「てめえのお陰で、俺はやりたいことがなにひとつできない。ただ毎日、お前の声に抑圧されて、なにもできないで悶々と暮らしている。いったいなぜだ、そもそもお前は何者なんだっ!」
  悲痛な声で叫んだ。
  夜更けの住宅街、細い路地。
  叫び声を上げる時間ではないが、厚く冷たい雪のカーテンに、満夫の声は阻まれ掻き消された。
(こんな時間に喚き声なんて、どれだけ迷惑な男なんだお前は。警察を呼ばれでもしてみろっ!それこそ捕らえられてあらぬ疑いをかけられ、犯罪者に仕立て上げられるのが関の山だぞ)
  誰のせいだ。
  誰のせいで俺は大声を上げたのだっ!
  悔しさのあまり、満夫は思わず嗚咽を漏らした。
  足は重く前に進めず、次第に首が頭の重さに耐え切れなくなってきた。
  今の満夫の立ち姿は、泥酔したおっさんのようであったが、彼自身は一滴の酒も口にしていない。
  よろける足をばしばしと叩き、ようやく満夫は踏ん張った。
  空を見上げるとぼたん雪が顔に圧し掛かってくる。
  冷たいだけでなく、鼻や口を塞いで息苦しくさえあった。
  歩き続ける満夫は、ポケットの中をまさぐり、必要な物をちゃんと持っているか確認した。
(ある。大丈夫だ)
  降雪が密度を増した。
  益々視界が至近になり、夜は益々白くなった。
(雪なんかに、負けてたまるかっ!)
  ようやく、辿り着いたのだ。
  この三ヶ月間、どれだけ苦しみ怒り、憤怒のあまりのた打ち回り、食事もできない日が続き、胃壁は自分の胃酸で溶け爛れ、逆流した胃液は夥しい血が混じって赤々としていた。
(そんな苦しみも、これまでだ)
  そう思うと、苦しみも吹っ飛んでしまいそうだ。
  ただ、心に囁きかける声だけが、邪魔で仕方ない。
  満夫はいつの間にか、自分が泣いていたのだと気がついた。
  本望を遂げる喜びと、それを妨げようとする者の正体に気がついたのと。
  
  目的の場所に辿り着いた満夫を待っていたのは、多数の警察官だった。
  その中には、見知った顔もいた。
「ああっ、あなたは、福山満夫さんじゃないですかっ!」
  若い警察官が駆け寄ってきた。
「どうして、ここが分かったんですか?」
  と訊くではないか。
「ど、どうしてって言われても……、ぐ、偶然通りかかっただけでして」
  しどろもどろの満夫は、ポケットに突っ込んだ手をどうしていいものか混乱した。
  警察官は疑わなかった。なにしろ彼の家とこの場所は、一キロも離れていないのだ。
  心の声と雪がなければ、とっくの昔に辿り着いていて、
(燃やしていたんだ、俺は、この家の奴らをっ!)
「もしかしたら、うちの係長が連絡したんでしょうかね。ここの家の者が、福山さんの奥さんを轢き逃げして逃走した犯人だったんです。遅くなりましたが、ようやく判明いたしまして!」
  若い警官は、感無量の表情で敬礼した。
「大変申し訳ございませんでした。しかし後は、我々にお任せ下さい」
  無理に作った笑い顔で、満夫を追い払おうとするのだ。
  困惑した満夫の前に、その家の主人が、私服警官たちに囲まれて現れた。
(こいつだ、夢に現れた男だ)
  心の中の声が教えてくれた、妻を車で轢死させた犯人。心に響く声は、こいつの存在を教え、復讐の機会を教えてくれたはずなのだ。
  しかしなぜ、ここに辿り着くのを邪魔したのだろう。
  思い返せば、もしスムーズに辿り着いていたのなら、復讐する前に捜査にきた警察官に止められたかもしれない。
  歩いている途中で、放火のために用意したガソリンの小瓶を警察官に見咎められたかもしれない。
  満夫の妻を死なせた犯人は、往生際もみっともなく警察官に連行されていった。
  警察官たちも、続々と引き上げていく。
  やがて野次馬も去り、辺りは閑散とした。
  雪は止み、ここまで僅か一キロ足らずを歩くのに、どれだけ苦労したのかと満夫は愕然とした。
  いつの間にか夜空が晴れていて、新月に近い細い月が、中天に浮いていて、今が深夜であることを報せていた。
  心の声が囁いた。
(お前が、あの轢き逃げ犯の家に放火して、もしも死なせて見ろ。お前は復讐して終わりかも知れないが、お前の幸せを誰よりも願っていた嫁さんは、いったいどう思うかな?)
  この夜凍りついていた心が、不意に溶けたような気がして、満夫の双眸から熱い涙が吹き零れた。
  妻の後を追うつもりだった。
  復讐が済めば。
(嫁さんは、それを望んでいないみたいだぞ)
  心の声の向こうに、満夫は愛する妻が佇んでいる姿を認め、突如絶叫するがごとく泣き始めた。
  積もった雪が、街を白く染め上げ、乱反射した光のせいで、今宵はいつになく白い夜だった。