第漆拾壱夜

説明嫌いの魔女

新米刑事の徳田三吉(とくだみつよし)は、署内の廊下で突然呼び止められた。
「あ、織田さん、なにか用ですか?」
ちょっと来い来いと指先に引きずられ、休憩室に行くと、
「昨日の変死体、どう報告することになったの?」
いきなり訊ねられた。
織田紀子(おだのりこ)はベテラン鑑識課員で四十近い歳らしいが仕事一途で独身だ。
美人だが性格がきついので署内でも敬遠されている。
「ああ、あの女の人ですか?異食の常習者で、それが元で胃が破裂して死んだ、事故死ということで片付けることに決まりましたよ」
「片付けるか……、まったく、このお役所どもめが」
昨日の変死体というのは、マンションで死んでいるのが見つかった二十七歳の女性のことだ。
リビングのソファで、血塗れで死んでいた。
自らの吐血で、全身を朱に染めていたのだ。
平野詩織。職業キャバ嬢。
死んでも尚艶めかしい女で、見事なプロポーションに幾人かの刑事や鑑識課員の目が釘付けになったほどだ。
勿論徳田も。
眉を顰めてその様子を見ていたのは織田とゲイの噂のある明智だけだった。
「お宅の検視官さんが断定したって聞きましたよ、重度の貧血患者は異食の性癖を持つ。それが昂じた結果だって」
解剖された詩織の胃からは、剃刀の破片、釘、鉄やアルミ、銅や鉛の欠片、枯れ木、竹、小石などが発見された。
「司法解剖はお金がかかりますからねえ。変死とはいえ、事件性はまったく感じられませんでしたから」
と言い放った徳田に、
「生意気言ってんじゃないわよ。そんな適当なこじつけとしか言いようのない検死結果、上は信じてもあたしは騙されないわよ!」
凄まじい剣幕で食って掛かってきた紀子。徳田は鼻白んで、
「も、文句言うんなら検視官に言って下さいよ。僕が判断したわけじゃないんだから」
弁解する。
「いい、よぉく考えて。重度の貧血で異食を起こすような女が、あんなに艶々した肌でしかもあんたらが涎を垂らしそうな巨乳、パツパツに張った尻や筋肉質の体を持っていると思う?あんただって見蕩れていたでしょ?」
そう告げられて、徳田は目を白黒させた。
いわれてみれば確かに、そんな気がしないでもない。だが、徳田を慄然とさせたのは、次の紀子の言葉だった。
「あたし彼女の血液検査もやったの。勿論、貧血の症状はなかった。それどころか、日本赤十字社が頭を下げて献血をお願いするんじゃないかと思うほどの健康体だったわよ」
「なんですって?そ、それじゃ完全に見立て違いじゃないですかっ!」
「そういうことよ」
別に憶測で紀子は検視官の見立てを疑っていたわけではないらしい。
「でも、だからといって彼女の死亡が事件に直接繋がるってことにはならないでしょ?もしかしたら神経が参っててそっちの病気で異食に走ってたのかも知れないし」
さっさと会話を切り上げて立ち去りたい徳田は、そっけなく言い立ち去ろうとした。
「精神科医か、あんたは。たかが駆け出しの刑事のくせに、よくもそんな訳の分かったような口が利けるもんだね」
静かな声音だったが、中身は辛辣だ。ドライアイスのように冷ややかな視線を向けられた徳田は、首筋から頬にかけて鳥肌が立った。
「いいですか、」織田さん。些細な事故死の事であなたにとやかく言われる筋合いはないし、僕はただの若手なんです。文句があるならあなたの上司か、僕の上司に言ってください。僕は忙しいんですから」
立ち去ろうとした徳田に、
「これから女子大生と合コンする奴の口から、忙しいなんて言葉を聞くなんて、夢にも思わなかったよ。じゃあな、徳田。今夜のパーティーのことは、これからツイッターとフェイスブックにぶちまけといてやるよ」
と吐き捨て、紀子はさっさと背を向け歩き出した。
顔面蒼白になった徳田は、
「ま、待ってくださいよ、織田さんっ!」
昨今、警察官の私生活に対して世間の目は至極冷徹で、ネットで妙な噂でも立てられたら、即座に左遷、下手を打てば懲戒免職なのだ。

「だから、なんだってんですか?事件だとでもいいたいんですか?」
「これはね、黒魔術だ」
断言した紀子の言葉に、
「はあっ?」
徳田は目を丸くし、
「あの、なんでか、それ?もしかして、そっち系のおたくだったんですか、織田さん」
と口許を覆った。
「笑いたかったら笑ってもいいけど、ついてきな。でないと、一生後悔することになるよ」
紀子の目は笑っていない。
ふたりがやってきたのは、被害者が死んでいたマンションの部屋だ。玄関はまだ立ち入り禁止になっていてビニール紐が張られ、正式に事件性がないと判断されたわけではないから、まだ警備を担当する警察官が二名ほど待機している。
「なにをするんですか?」
「彼女を呪殺した相手をこれから逆探知するんだよ」
「はあ?」
呆れ顔の徳田は、
「織田さん、恥ずかしくも鑑識課員でしょ?黒魔術だの呪殺だのそんな妄想めいたこと口にして、恥ずかしくないんですか?」
「いいから手伝いなさい、駆け出しが生意気言ってんじゃないわよっ!」
紀子が取り出したのは、折り畳んだ布きれだ。古くてところどころ変色し傷んでいる。しかも奇妙な匂いがした。
「な、なんですか、それ?」
「いいから広げるの手伝って!」
徳田は初めて見たが、その布の中心には円陣に囲まれた六芒星が刺繍されている。
「これ、描かれているんじゃないんですね」
「刺繍だったら邪魔されにくいからね。描かれた奴だと剥がれたりするけど」
そっけなく答えた。
「じゃあ、あんたそこに立ってて」
と対面に徳田を立たせた紀子は、奇妙な呪文を唱え始めた。
両手を胸の高さにして奇妙な形に指を組み、徳田を睨みつけている。
「そ、そんな怖い目で見なくたって……」
と言いかけた徳田に、
「動くなっ!あんたを媒体に使ってるんだからっ」
「ば、媒体って、なんで……」
と言いかけたその瞬間、腹部に違和感を感じた徳田は視線を落とし、ああっと悲鳴を上げた。
「キタキタきたーっ!」
紀子が叫ぶ。
スーツのボタンがピンピンと弾け、ワイシャツのボタンも千切れ跳んだ。
「ど、どーなってんだーっ!」
徳田の腹がぼわあっと膨れ、左右に裂け、そこから、人間の頭のようなものが突き出てきたのだ。
「う、うそーーーっ!」
顔面蒼白、汗まみれの徳田は呆然と自分の腹部を見詰めている。出てきたのは白髪混じりの男の頭。
体は裸だ。
「く、くそっ!風呂に入ってたってのに、なんてこった!」
どたんと床に転げ落ちた。
「やっぱりあなたでしたか、室谷検視官!」
呼ばれて男はやれやれと立ち上がった。
「ちっ、貴様上司の命令に背いて勝手に捜査継続してやがったな?」
貧血による異食が原因と断定した男が、徳田の腹から全裸で現れたのである。
「大方、痴情のもつれであんたが黒魔術使って殺したんでしょうが、あたしの目は誤魔化せなかったってことよっ」
紀子が険しい表情で室谷を睨みつけた。
初老の男はニヤニヤ笑を唇の端に貼り付け、
「おまえ、最初から俺を疑ってやがったんだろう」
「ええ、あんたがどうも自宅で兎を飼ってるらしいってことに気がついたときにね。呪術の生贄に使うんだろうって。大体勤務先のデスクに魔法書隠してるなんて非常識もいいところよ」
「勝手に俺の机の中見やがったなっ」
憎悪も露わに睨み合うふたりに、
「あ、あの、俺の腹、穴が開いたままになってんですけど」
徳田が泣き声を出した。
「うるさい黙ってろ!」
ふたりから同時に叱責され、徳田はこれ以上はないほど気の毒で憐れな表情になった。
「そもそもなんであの女を殺したのよ」
「遊びだちったんだが、段々面倒くさいこと言うようになったんでね。あの面で手切れ金一千万も寄越せっていいやがった。自分それだけの価値があると思っていたんなら、あの女は大層な思い上がりだ」
傑作そうに笑った。
「この人でなしめ」
紀子が歯軋りする。
「織田よお、しかしお前、捜査一課になんて説明する?うちの検視官が黒魔術で女を殺しましたってか?検事がなんていうと思う?大笑いされた後、お前は間違いなく懲戒免職だわな」
せせら笑う室谷に、
「あんたを捕まえるとか法廷に引っ張り出すとか考えていないわ。ここであたしが始末をつけてやる」
「ほお、やれるもんならやってもらおうじゃないか」
全裸で仁王立ちの室谷が、威嚇するように紀子を睨む。
紀子は鑑識課員だ。当然武器など持っていない。
どうするのだろうか、徳田は事の成り行きと腹に穴の開いた自分の成り行きを不安たっぷりに見守った。
突如紀子が取り出したのは、茶色の小瓶だ。
「お、お前、どうしてそんなものを」
驚愕する室谷に、
「やれるもんならやれっていったのは、あんたの方だからねっ」
「待てっ」
飛びかかろうとした室谷だったが、その目前で紀子は瓶の中の液体を徳田のぽっかり開いた腹の穴に向かって振り撒いた。
「ば、バカ、止せっ」
しかしもう遅かった。
断末魔の悲鳴を上げ、室谷の四肢の先端から融け崩れ始め、あっという間にボタボタと垂れて蒸発していく。
顔の皮膚も剥がれ落ち、骨だけになったと見るや、白骨も風化するように粉になり、床に溜まったかと思うとその床に沁み込んで行くように消え去った。
徳田は、ぽっかりと口を開け、アホウのようにその成り行きを見守っていたが、
「あ、穴が……」
いつの間にか腹は元に戻っていた。
「あんた、このことは他言無用だからね」
とだけ言って、紀子はさっさと帰り支度し出て行こうとする。
「ち、ちょっと待ってくださいよ、いったいこれはなんだったんですか?」
「説明は面倒だからしたくないっ」
「ええーーっ!」
慌てて徳田は後を追う。
外に出た紀子は、
「あんた、また媒体に使ってやるからね、楽しみにしてて」
と笑った。
徳田は絶望的な表情になって、マンションの入り口で立ち尽くした。