第陸拾伍夜

デジャ・ヴュ

初めて訪れた駅なのに、
(ここに来たことがあるような気がする)
と里江子はホームに降り立った瞬間に感じた。
しかし来たことがあるはずはないのだ。絶対に。
「どうしてそんな場所に卒業旅行に行くのよ」
母が目を丸くして、
「お父さん、いいんですか、そんなところに行かせて」
「いいじゃないか、別段危ない場所に行くわけじゃあるまいし。ひとりじゃなくて友達もいっしょなんだろ?」
父は苦笑して、気をつけて行っておいで、と送り出してくれた。
父には申し訳なかったが、友達といっしょというのは嘘だった。
『星界』と書いて『ほしぞら』と読ませる駅は、日本で一番空気がきれいで美しい星空が見えることから、町おこしのためにつけられた名前だという。
テレビのニュースになっていたから、駅前の風景くらいは見た記憶があってもおかしくないのだ、と自分に言い聞かせながら、里江子は小さな駅前ロータリーの中を歩いた。
家もない。
車もいない。
ディーゼルカーから降りたのも自分ひとり。
駅員もいなくて、本当に寂しい駅だ。
駅の壁に貼られた、
『星界へようこそ。降り注ぐ星星があなたを夢幻の宙(そら)へと誘います』
満天の星に彩られたポスターが、なんだか虚しげにさえ見えた。

予約した宿は、この街でただ一軒だけの旅館。
出迎えてくれたのは老夫婦だった。
にこやかなおばあさん、生真面目そうな口数の少ないおじいさん。

都会育ちの里江子は、本物の星空を一度も見たことがない。
友達は両親の田舎に行って見たことがあるのだが、彼女にはそんな田舎の親戚というものがなかった。
修学旅行も都会から都会へと渡り歩いたようなもので、空はいつもの暗く灰色の光害に覆われていた。
だからこそ、
『日本で一番星空の美しい星界駅』
というキャッフレーズに魅かれたのかもしれない。

「今の時期はちょうど春で曇りの日が多くてね。もしかしたら、ご期待に添えないかも知れないけど、その時はごめんなさいね」
「い、いいえ、いいんです」
そうか、春は曇りが多いのか。
それならば仕方がない。またいつか来ればいいことだ。
「夕飯の支度まではまだ間がありますから、近くを散歩でもしてらっしゃったらいかがですか?」
小さな小さな商店街は、本当にさびれていてお年寄りがぽつぽつ歩いているだけ、店番が誰なのかもわからない。
「いったい、誰のアイデアであのポスターやキャッチフレーズで町おこしやろうってことになったんだろ」
デジカメで風景を撮影しながら、なんだかおかしくなって、里江子はついつい笑ってしまっていたようだ。
春の陽気というには、いささか温かすぎる。
(これが南国なんだなあ)
一人旅も初めてなら、本州から出たのも初めてだ。
(こんな田舎の風景なんて、テレビでしか見たことなかったから)
街はすぐに終わり、田園風景が広がっていた。
田んぼは田起こしを終えたばかりで、もうしばらくしたら田植えの季節がやってくるのだろう。
気の早い桜が咲き始めている。東京より一週間以上早いのだ。
(このまま晴れていてくれたらいいのに)
そろそろ日が傾いてきた。暗くなったらまず道は分からなくなるに違いない。戻ろうと振り向いた瞬間だった。
(まただ)
またあの既視感に捉われた。
このビジュアル。田園地帯から、離れた町並みの入り口が見える。
(どこかでこんな風景を見たことがあるような気がする)
絶対に来たことなどないはずなのに。

「思ったより天気がいいから、星が見えると思う」
口篭るように、そうおじいさんが教えてくれた。
「これを使うといいよ」
三脚を貸してくれて、固定すれば手ぶれしないで星空を写せるだろう、と教えてくれた。
「ありがとう、おじいさん」
水がきれいなせいだろうか、特段に豪勢な料理というわけでもないのに、生まれて初めてと思えるほど美味な夕飯。
そして日が暮れると、
「ここが一番よく見えるから」
と老夫婦が案内してくれたのは、旅館の裏庭。
意外に広くて視界が開けていたのだ。
「ほら、ごらんなさいね」
とおばさんが空を指差した。
「わあっ」
里江子は思わず両手で顔を覆ってしまった。
「どうしたね、おじょうちゃん」
と心配そうに声をかけるおじいさん。
「なんだか、空が降って来そうで」
輝く粒子が空をびっしりと覆っているかのように見えた。
このひとつひとつが、全て恒星ならば、地球人以外の生物がこの宇宙にどこにいてもおかしくない、そんな風に里江子には思えてならなかった。
「あれがオリオン、そして北斗七星に、こう線をひくとおとめ座」
と丁寧に説明してくれる老夫婦は、まるで子供のように無邪気だった。
(私にもこんな素敵なおじいちゃんおばあちゃんがいたらなあ)
里江子の祖父母は父方母方共に幼いころ他界していて記憶も薄い。
「本当にこんなに星って見れるもんだったんだあ」
感嘆の声しか出ない。
どこからか漂ってくる春の香、そして美しい星星。
いつの間にか里江子は目の縁から涙がこぼれ、頬を伝っていることに気がついた。
春とはいえ、まだ夜は寒かったが、老夫婦に肩を抱かれているだけで、
(とても温かい)
と思った。

その夜、不思議な夢を見た。
(わたしは宙(ソラ)に溺れる……)
天空に吸い込まれていく、自分そっくりの顔をした女の子の夢。
どれだけ手を伸ばしても届かない。
(さようなら、わたし)
どういう意味の夢だったのだろう。

帰る時に、駅までの道をゆっくりと歩きながら、
(やっぱり見たことのある街だ。どこもかしこも)
既視感は益々強くなり、なにか言い知れぬ不安さえ募ってきた。
どうしてわたしはここに来たのだろう。なにか理由があるんじゃないだろうか。
(このまま帰っていいのだろうか)
駅前に辿り着いた里江子は、そこで立ち尽くした。
「なに、なに?」
この街のどこに、こんな大勢の人がいたのだろうか?
夥しい群集がズラリと並んで、自分の方を凝視している。
皆一様に不気味な笑みを浮かべていた。
そして規則正しい足取りで、里江子に向かって進んでくるのだ。
悪寒が背筋を貫き、足が好くんだ。
「りえちゃん、こっちだよ!」
手を引かれ、車に押し込められた。
旅館のおばあさんだった。軽トラックを運転しているのはおじいさんだった。
喚声が湧き起こり、怒りの形相で人々が追ってきた。
軽トラックは細い国道を疾駆し、街を背に逃げ出した。

「数年に一度、星祭の夜、若い娘を人身御供にするしきたりがあるの。ずっと昔にうちの娘も連れて行かれたのよ」
もう二度とあんな辛い思いを若い娘にさせてはならない。
「村の者を敵に回しても、悪しき風習は断ち切らなくてはならないんだ」
おじいさんの顔には、苦渋がにじみ出ていた。
「でも、そんなことをしたら、おじいさんとおばあさんが……」
「あたしたちのことは心配しなくていいんだよ、必ず逃がしてあげるからね」
しっかり手を握り締め、おばあさんはにっこり笑った。
追っ手はしつこかった。
カーチェイスさながらで、里江子は歯を食い縛りおばあさんにしがみついていた。
おじいさんの運転はプロの目を欺くほどの腕前で、ついに追っ手を振り払ったのだった。
「あれを見ろ」
背後の天空に、巨大な銀色の物体が浮かび上がった。
「儀式は、途絶える。これでいいんだ」
物体は、空間に滲み熔けるように消え去った。

大学生になった里江子は、時折インターネットで星界駅とあの旅館を検索してみるのだが、そんな場所があった痕跡すら見いだせなかった。
あの優しかったおじいさんとおばあさんがどこにいるのか、そして自分がどうしてデジャ・ヴュに捉われたのか、理解できないままなのだ。