第陸拾肆夜

アイテム

「おまえ……これはないだろうよ、いくらなんでもよお」
マサルは思わず顔を顰めてユウスケに言った。
「しかもおまえこの臭いっ!」
「うるせえなあっ」
ユウスケは憤然として、
「人の趣味にいちゃもんつけんじゃねえよ」
「趣味って、なんの趣味だよ。死体を部屋に飾るのが趣味なのか?」
マサルは冷ややかに侮蔑の言葉を投げかけた。
「おまえが遊びに来いっていうから来てやったけど、こんな気色の悪いもん見せられたんじゃなあ」
来なきゃよかった、とマサルは吐き捨て、
「じゃあな。もう二度と連絡すんなよ、お前とは絶好だ」
ワンルームのユウスケの部屋のど真ん中にある丸テーブルの上には、巨大な豚の生首が置かれていた。
しかも目を剥いている。
切り口のめくれた部分には、まだ血が生乾きだ。
これが作り物だとしたら、作った奴は相当悪趣味でマニアックな奴だ。
だが、この部屋に充満した異臭から判断して、この豚の頭は本物だとマサルは思った。
もうしばらくしたら、蛆が湧き出てくるだろう。
「待てよ、これをただの悪趣味な生首だと思ったら大間違いだぞ」
ユウスケの瞳が、何か異様な光を宿しているのを見て、マサルはドア口で立ち止まり目を眇めた。
「じゃあなんだって言うんだよ」
「これはな、幸運を齎してくれるって奇跡を起こす、重要アイテムなんだよ」
はあ?
なに寝惚けてやがる。
マサルも相当イカれた遊びにうつつを抜かしたこともあったし、悪ふざけも散々やったが、豚の生首が幸運が幸運を呼んでくれるなんて話はついぞ聞いたことが無い。
それが現実だったら、屠殺業者(ブッチャー)はみんな世紀の大金持ち揃いってことになる。
(こいつ、女にフラれて頭イカれやがったな)
とマサルは思ったが、それを告げたら暴れだすんじゃないかと不安になったものの、
「そりゃ良かったな。じゃあ、精々おまえひとりで幸福になってくれよ。俺は特に奇跡に用はねえ」
あくまで毅然と、話しに乗らない態度を貫いた。
「あばよ」
ドアを開けかけた。
「おまえ、リサがどうなってもいいのか?」
ユウスケの口元に陰湿な笑みが浮かんでいる。
マサルの眉間に深く皺が刻まれた。
「どういうことだよ」
「この首の起こす奇跡ってのは、俺が幸せになるためのものだが、俺の幸せがてめえの不幸だってこともあり得る。そういう話さ」
「てめえっ!」
リサに、
「俺もそろそろ落ちつかねえとな」
と話をしたのはつい三日前のことだ。
「いつまでもバイトじゃ世帯持っても安心できねえだろうしさ」
リサは一瞬呆気に取られた顔をしたが、マサルの表情に真意を見出し、満面に喜色を浮かべたのだった。
まだ世間は冷たい風吹きすさぶ大寒の時分だが、ふたりの心には微かに春風が吹いた。
(リサとふたりで、真っ当な暮らしをするんだ)
固く心に近いねほっそりした体躯をしっかりと抱き締めた。
その温もりはまだ記憶に新しい。
「てめえ、そんなもん使ってなに企んでやがる」
表情を険しくしたマサルを見て、ユウスケの笑みは益々陰惨な喜びに満ちていった。
「まあそんなところに突っ立ってねえで上がれよ、ゆっくり話ししようぜ」
ユウスケの言いなりになるのは不快千万だったが、相手の胸の裡が読めない以上、黙って言う通りにするしかない。
豚の生首の前に座らされたマサルは、
「俺になにをさせようっていうんだ」
ユウスケを睨み据えた。
「なにってわけじゃない。おまえにはどうしても詫びを入れてもらわなきゃならないことがあんだ。わかんだろ?」
「わかんねえよ。なんのことだ」
ユウスケの目が荒んだ色を帯びた。
「カオルのことだよ」
「カオルう?」
カオルはユウスケを振った女だ。というより、ユウスケが勝手に片思いしていた女だ。
どうして相手にしなかったかと言うと、ちゃんと告白しなかったからだ。そのクセつきまとったり無言電話をかけたり部屋の前で立ち尽くしていたりした。
ストーカー以外の何者でもなかったから、
「二度と近付かないでっ」
とキレられた。
「おまえのせいだ。おまえが、カオルに俺と付き合うなって言ったんだ。そうだろ?でなきゃ……」
「でなきゃどうなってたってんだよっ。俺はカオルのことなんか知らねえぞ。」
「嘘つくなーーっ!」
マサルは息を呑んだ。
ユウスケの目が、真っ赤になっている。血走っているのを通り越して。
鼻の穴が大きく開き、突然興奮の絶頂に達したのだと分かる。
「どーしたんだ、おめえ……」
と問いかけたマサルに、
「おめえのせいでカオルが俺から離れてったんだよっ!おめえ、カオルとできてやがったんだろ!リサと二股かけてやがったんだろっ!女ふたり、どっちも自分のもんにしようなんて考え、勝手過ぎやしねえか?ええ、おい、色男さんよおっ」
「おめえ、何言ってんだ?」
「何いってんだじゃねえ!てめえの胸に聞いてみやがれっ」
ユウスケは明らかにどこかが飛んでいた。マサルが怯むほどに。
「こいつを見ろ」
取り出して見せたのは、刃渡りが二十センチ足らずの包丁だ。安物だとすぐに分かる、稚拙な造りになっている。百円均一に売っているような、軽くて切れ味の悪い代物だ。だが、真っ直ぐに心臓を刺されれば死ぬ。
「それがなんだってんだよ」
マサルの脳内でアラームが鳴り響く。
「この豚の頭はな、幸運のアイテムなんだ」
「さっき聞いたよ」
「うるせえっ!こいつでおめえに復讐してやるんだっ!よく見てろっ」
包丁を持ったままユウスケは豚の頭を被った。
凄まじい悪臭が再び室内に充満する。
(こいつ、本当の気違いだ)
固唾を呑んで見守っていると、
「ほらあっ、見ろっ!」
マサルは愕然とした。
「う、嘘だろ……」
目の前に現れたのは、自分だったのだ。
勝ち誇ったように、マサルの顔のユウスケが哄笑している。
「見たか、この豚の頭はな、自分が恨んでいる相手と同じ顔にしてくれるアイテムなんだ。おめえを殺して、俺がリサの男になってやるよ。へへっ、さあ、おめえはもういらねえんだっ」
動揺しているマサルに、ユウスケの手にした包丁が迫った。
「がああっ!死にやがれえ」
「ま、待てっ」
その刃先がマサルの左胸に刺さろうとした瞬間だった。
「約束が違うねえ」
ユウスケの動きが止まった。驚愕の目で、声のした方を見ている。
「だからあんたみたいなバカには売りたくなかったんだ」
貧相な白髪の老人が立っている。
「このアイテムは、誰かを不幸にするために使うんじゃない。誰かを不幸にすることが自分の幸せだと思っているような人間には、持つ資格がないんじゃって最初に言ったろうが、このバカ」
固まったユウスケの手から包丁をもぎ取った老人は、それをキッチンの包丁差しに戻し、
「おまえの心臓は留めておいたほうがいいようだ。余人の迷惑になるでな」
ユウスケの肉体が、ゴロンと横倒しになるのを見届け、豚の頭を抱え上げた老人はマサルに向き直り、
「さっさと出て行くがいい。心配するな。自然死だから警察に疑われたりはしない。早く自分の女のところに行ってやるがいい」
マサルは戦慄に追い立てられるようにユウスケの部屋から逃げ出した。

二年ほど過ぎた。
マサルは幸せにうずもれるような毎日の暮らしに満足していた。
「ただいま」
帰宅したマサルは、小さなテーブルの上に載せられたものを見て息が止まった。
「ねえねえ、凄いでしょ?これ、白髪のおじいさんから買ったの。幸せになれるアイテムだって」
巨大な豚の生首だった。
マサルは喘ぎながら、
「こいつに、何をどう願ったら幸せになれるってんだ?」
と自問自答していた。
「醜いものを前に、薔薇色の幸せを願えるほど俺は想像力豊かじゃない」
豚の顔が、ユウスケの顔にしか見えなかった。