第陸拾弐夜

不眠

もう一週間もまともに眠っていない。
そろそろいらいらが限界に近付きつつある小坂は、勤務先でも著しく不機嫌な表情で他の社員たちから敬遠されていた。
(いったいあれはなんなんだ)
目を閉じると瞼の裏に現れる。
真っ白な顔の無い女。
薄い唇だけが、血塗られたように赤々と笑っている。
うとうとしそうになると、決まって瞼の裏に浮かび上がるのだ。
寝入り端の人間の心は無防備だ。
そこに出現するのだから大そう驚く。

小坂の社内での評判は元々悪い。
無愛想で部下に対する八つ当たりは完全なパワハラだった。
女性社員に対しては陰湿なセクハラ、そのせいで退職した者もいる。
それなのに小坂は常にお咎めなし。
というのも、上司に取り入ることに関しては際立った才能を保持していたからだ。
それはもう忠実な犬をも遥かに凌駕する献身振りで、
「靴を舐めろといわれれば舐める」
ような男だった。
恐らくその反動で目下の者や部下に対し異常とも思える八つ当たりを敢行していたのに違いないのだ。
そんな男だったから、具合が悪そうにしていても誰一人として声をかけてくれたりはしなかった。
それどころか、流行り病に罹患した者のように、皆が距離を置き近付こうともしなかった。
出社してもお茶ひとつ出てこないのである。
「不愉快だ。不愉快だ、不愉快だっ!」
小坂は不眠に会社での周囲の仕打ちも手伝い、かつて感じたことのなかった激しいストレスに苛まれていた。

「小坂さん、小坂恒夫さん」
名を呼ばれて顔を上げた小坂は死人より血の気が薄れ蒼褪めていた。
「どうぞ、お入りください」
医師に不眠を訴える小坂の滑舌は悪く、しどろもどろだった。
長引いた不眠のせいで自律神経に変調を来たし、唇の端が硬直してうまく話すことができなくなっているのだ。
「らから、めをとりると……」
「目を閉じたらどうなるんですか?」
必死で状況を訴える小坂の話を、医師は真面目な顔で聞いている。
「つまり、目を閉じると見たことの無い女の人の映像が瞼の裏に浮かぶということなんですね?」
「そうれふ」
医師はしばらく黙していたが、
「わかりました。お薬を出しておきますので、服用してしばらく様子を見てください」
処方されたの向精神薬を服用して、
(今夜からはちゃんと眠れるに違いない)
小坂の目に安堵の色が浮かんだ。

だが、ベッドに潜り込んで数秒と経たない内に、
「あーーーーっ!」
喚き声を上げて飛び起きた。
顔の無い女は、瞼の裏に貼りついているかのようだった。

いったいどうして顔の無い女が、彼の目の中に現れるのか、小坂自身はまったく身に覚えが無い。
彼は数多くの人の恨みを買っているが、自覚がないのだった。
昔から、
「本物の悪党はバチが当たらない」
というが、正に彼がそれで、報いを受けていることに気がつかないでいるのだ。

薬の服用を開始してから一週間経過したが、病状は好転するどころか、次第に悪化して行く一方だ。
日中、目を開けていても、目の前に顔の無い女が現れるようになった。
勤務中に暴れだした彼は、同僚や部下に取り押さえられ警察に突き出された。
そのまま監視付きの医療施設に送られ『統合失調症』と診断され強制入院となった。
幾つもの薬を服まされ注射され点滴を受けたが、真っ白な顔の無い女の薄笑いは、彼の前から消えることが無い。
「治療不可能か。このままじゃ狂死だな」
医師の予想したとおり、遂に完全に発狂した小坂は、不眠状態が続き過ぎたせいで絶命した。

「隊長、これ、これ見て下さい」
警備隊員が上司に監視カメラの映像を見せた。
「早送りします」
廊下を、ひとりの女が歩いていく映像。
後ろ姿が映っている。
「なんだ、この女はっ!病棟を職員や警備員以外が歩き回ることはないはずだぞ」
こんなことが上に知れたら、責任問題だけでは済まされないところだ。
「隊長、そんなもんじゃない、それどころじゃないんです」
それがカメラの真横を通るとき、ふっと上を向いた。
「げえっ」
思わずそこにいてモニターを見ていた全員が引きつった声を出した。
女には顔がなかった。
いや、赤々と濡れた薄い唇だけが両端をきゅっと吊り上げて笑っていたのだ。
「な、な、なんということだ」
女は次々と設置された監視カメラに写りこんでいる。
病棟の廊下を彷徨うように移動しているのだ。
「どこから出てきたんだ」
「今日亡くなった小坂という患者のいた病室からです」
警備隊長は棒を呑んだように突っ張った。
彼の病状は医師から聞いていた。
(瞼の裏に、顔の無い女が見えるとかで、不眠が続いたせいで……)
まさか、その女が実在して病院の中を歩き回っているというのか?
「あ、女が消えました」
「どこで消えたんだっ」
モニターを監視していた警備員が、真っ青な顔で、監視室のドアを見ている。
そこにいた全員が、ドアを凝視した。
がちゃり
ノブが回った。