第伍拾玖夜

悲しきペーパードライバー

「あれ?」
「どうした」
「あそこの窓に人がいた」
「なに言ってんだ、いるわけねえだろ」
「ホントにいたんだってば」
ここには人がいるはずがない。
竹下は鼻で笑い、
「純子、俺を脅かそうたって、そうはいかないよ。俺はお化けとか幽霊とか、てんで信じてないタイプだからね」
ピアスだらけの顔の隙間を縫うように指を這わせて掻きながら、竹下は眠たそうな目で女を見た。
ふたりは、この見捨てられた住宅街にお宝を探しに来た。
掘り出し物を見つけてはネットオークションで売り捌くのだ。
早い話が廃墟荒らしであった。
ふたりは家族でもなければ恋人同士でもない。
欲だけで結びついた仕事仲間という関係だ。そしてその仕事は真っ当ではない、犯罪でしかなかった。
「あたし、行かないわよ、あの家には」
「おいおい、ワガママはよくないな、子ネコちゃん。俺たちの仕事は協力してやるという約束になってるはずだよねえ。なんのためにこんなド田舎まで来てるのか、まさか忘れたなんていわないでくれよ」
冗談めかした口調だが目は笑っていない。
裏切りは死を意味する。
そういう密約、書面はおろか、言葉でも交わしてすらいないが、悪には悪のルールがある。
竹下はそれを純子に思い知らせようとした。だが、
「あんた、あたしがここはヤバいって言ってんだ。どうしても行きたいならマジひとりでいきな」
いつの間にか抜き出したナイフの先端を竹下の鼻先に突きつけている。
小さな瞳孔をひたと純子に見据えた竹下だったが、
「ちっ、臆病女め」
吐き捨てると、サイドブレーキも引かずに車から下り、
「ひとりで帰るなよっ」
「そこまではしないわよっ。さっさと行ってさっさと帰って来いっ」
ずたぼろのようになったデイパックを肩に下げ、竹下は廃墟の中に入っていった。

「クソバカ女が。こんな場所に人がいるわけねえだろうが。もしいたとしたら、同業者だ」
それでも竹下は、純子が裏切って車を発進させない自信があった。
「奴は実際、車の運転できゃあしねえからな」
免許も、持っているかどうか怪しいものだ。なにしろ自転車もまともに乗りこなせやしいのだから。
玄関のドアは施錠されていて、それが竹下の心を弾ませた。
まだ中が荒らされていない可能性があるからだ。
家屋の中は以外に広かった。
金をかけて建てられたのだろうが、見捨てられてしまったら巨大な空洞となんら変わるところはない。
「さあて、なんかねえか」
見捨てられてホンの一、二年、いや、もっと短いかもしれない。家財道具は殆ど荒らされておらず、住人がとりあえず必要最小限の物を持ち出した様子だけが窺われる。
「気の毒にねえ。すぐに戻れると思ったんだろうけどさあ」
戻れない事情ができたのだろう。
もしくは、逃げた先でもう諦めたのかもしれない。
すでにこの世の人ではないのかもしれない。
「いずれにしろ、俺には関係のないことだ。俺は、金目の物を頂いて立ち去るだけ。そして換金してそれを生活費に当てるだけ」
ひひっひっひっひひっ
と笑いに奇妙なリズムをつけた竹下は調度を吟味しながら値の張りそうな物をデイパックに突っ込んでいく。
二階に上がり、外に面した部屋に入った竹下は、窓から外を見下ろした。
「ちゃんといるだろうなあ、純子ちゃんよお」
車はまだあった。エンジン音も聞こえる。
中に純子がいるかどうかは分からないが、車さえ残してあれば、それていいと思った。
「さあて、二階にはなにかめぼしいものがあるかな」
と振り向いた竹下の目の端で、何かが動いたような気がした。
ドア向こうから、誰かがこっちを見ていたような気がしたのだ。
「おい純子。上がってきたのか?」
声をかけてみたが、返事はない。
「気のせいか?」
不意に、
(あそこの窓に人がいた)
純子の言葉が思い起こされた。
この部屋のことだった。
「よせやい、誰もいやしないよ、下にだって、誰もいなかったじゃないか」
なぜか脇腹から背中首筋にかけて、ぞわぞわしたものが這い上がってきた。
「おいおい、俺、しっかりしろよ、なにビビってんだよ」
竹下は慌てて部屋から飛び出している自分に気付いた。
外は曇天。
その影響で室内は暗く重苦しく沈んでいる。
「ちっ。臆病風が伝染っちまったか」
浮き足だったらロクなことがない。それに、気付けばデイパックは一杯になっている。
「一旦車に戻って出直すか」
自分に言い訳しつつ、竹下は玄関に向かった。
外に出ようとした時だった。
がしっと背中に担いだデイパックを鷲摑みにされ、竹下は狼狽し、
「ひ、ひーっ」
悲鳴を上げた。
「ちょっと、あたしだよっ」
いつの間にか純子が家屋内に侵入していたのである。
「お、脅かすんじゃねえよ、バカ。な、なんだよ、行きたくないって言ってたくせにっ」
「心配だから見に来てやったんじゃないか。そんな言い草はないだろう」
ちっと舌打ちし、
「もうめぼしいもんはねえ。さっさと行こうぜ、時間の無駄だ」
と出て行こうとした竹下に、
「二階に誰もいなかったのかよ」 
と純子は食い下がった。
「いねえ、いねえ。誰もいるわけねえだろ」
「そんなはずない。絶対にいたの。ねえ、いっしょに見に行って」
竹下は憤然として、
「今俺が見てきたとこなんだ。誰もいなかった。もう一回見に行く必要なんてねえんだっ」
純子の両目の間に右手の人差し指を突きつけ怒鳴った。
「行きたきゃひとりで行くんだな。俺は車に戻る。ぐずぐずしてると置いていくからな」
さっさと玄関のドアを開けようとした竹下の背中に、
「臆病風に吹かれたんだ」
純子が冷笑を浴びせた。
「なんだと」
怒気を孕んだ竹下の顔が歪んでいる。他人に小バカにされるのを最も嫌う性格だ。
「おまえ、ビジネスパートナーだと思ってるから大目に見てやってんだぞ。あんまり舐めた口聞くと承知しねえからな」
どす黒い憤怒も露わの竹下を前にしても、純子は平然とし、
「いいから、いっしょに来なさいよ」
と竹下を二階に誘った。
いやな顔で階段を上がっていく竹下は、さっき感じた何かの気配を思い出し、胃の腑を摑まれるような恐怖を覚えていた。
しかし純子の手前、それを言い出すことはできない。
女に弱みを見られ舐められるのには我慢がならなかったのだ。
「どけっ」
純子を押しのけ、先に立って階段を上がった。
道路に面した部屋には入りたくなかった竹下は、あえて反対側の部屋に入った。
北向きの若干ジメっとした部屋だったが、そこには誰もおらず、背筋に掻痒感を書き立てるような気配もない。
勝ち誇ったように、
「純子っ!なにか目当てのものでもあるのか?欲しかったら言えよ、探してやるからよお」
高らかに笑って見せた。
「おまえの探してる、人影はいねえみたいだけどな」
嘲笑する竹下に、
「あっ!あんた、ほらっ!車がっ」
純子が悲鳴のように甲高い声を上げた。
「えっ、車がどうしたって?」
警察が来たのか?
それとも、車を盗もうとしている奴がいるのか?
まったく油断も隙もない世の中だ、と南向きの部屋の窓際に立っていた純子を押しのけ、窓から身を乗り出した竹下の目に映ったのは……。
「うっ!」
車から降りて、心配そうにこっちを見上げている純子の姿だった。
一瞬の沈黙。
やがて竹下の全身の汗腺という汗腺から、恐怖が雫となって滴り落ちた。
「ほらあ。いたでしょ、この部屋に」
あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ
絶叫と共に窓から飛び降りようとした竹下だったが、腰を鷲摑みにされ、足が宙を泳いだ。
恐怖で顔の血管が膨らんだせいか、沢山の小さなピアスが、
ブツッブツッ
と音を立てて弾け跳んだ。
「助けて」
の声が喉を潰され掻き消えた。
彼の目に映った最後の光景は、車とその傍らで悲鳴を上げる純子の姿だった。
(逃げろ、純子)
と思ったが、彼女が運転できないことを思い出し、無念の内に息絶えた。