第伍拾肆夜

分岐点

「ここは俺の部屋だ」
高野の部屋だった、はずだ。
しかし、玄関の横に木製の糸車と機織り機が鎮座している。
そこにこんな広いスペースはなかったはずだ。
いや、あった。寝室があった。
玄関と寝室の壁が取り払われてレトロなマシンが置かれている。じゃあ、壁沿いにあった洋服ダンスはどこに行ったのだ?
ダイニングキッチンを通ってリビングに入るはずなのに、そこに中庭がある。
中庭に冷蔵庫と洗濯機が置かれ、キッチンはなくなって動物の水飲み場のような石造りの巨大な桶がある。
その横に土窯があって鍋を仕掛けるようになっていた。
中庭と思ったのは三和土の土間で、梁が剥き出しの屋根があった。
リビングルームがあった場所は畳の座敷になっている。
元のままなのは玄関のみ。
リビングの横には和室とサービスルームがあったはずだが、それもなくなって、ただ広い広い座敷幾つも連なってがあるだけ。
「見たことないぞ、こんな部屋」
だが確かに高野は自分の持っていた鍵を使ってここに入ったのだ。
「たった数時間で最新のマンションがどうしてこんなことになったんだ?」
新手のドッキリにしちゃあやることが、手が込み過ぎている。
それに彼はタレントでも芸人でもない。ドッキリを仕掛けられる理由など無かった。
「何が起こったんだ?」
そうか、とポンと手を打った。
「夢だ」
そう、夢の中ではとんでもない出来事が起こるものだ。そしてそれを夢と気付くことができないのが常だが、ごくたまに気付いてしまうことがある。それは目覚める直前だ。
誰もいないガランとした座敷の真ん中にぽつねんと座り、高野は目覚めを待った。
「おかしいな」
待てど暮らせど目が醒めない。夢とは、一瞬ごとに場面が変わるものではなかったか?
慌ててドアから外に出ようと三和土を走りぬけた。ドアを開けると、
「えっ?」
ここは、マンションの最上階、二十四階のはずじゃないか?少なくともさっき帰宅した時にはそうだった。だが今は違う。まるっきり違っている。
外は見渡す限りの緑、一色なのだ。
言葉を失いしばし呆然としていたが、
「こ、この光景は、見覚えがある」
と高野は気がついた。
何十年も前に見た、梅雨の晴れ間、涼やかな風が吹き渡っている。実家の裏から出てすぐに見える光景は、広々とした水田である。
不意に、両親が健康で元気だった過去の思い出が蘇ってきた。
「やっぱり夢だ。この景色はもうないんだから」
不意に悲しみが押し寄せてきた。
高野の両親は天災で他界している。彼がまだ十歳に満たないときだ。農家だったが、大洪水で田んぼも家もやられた。
そして彼は孤児になったのだ。

長い時間、見ていることができず、高野は踵を返して家屋の中に戻った。
先祖の代からあった機織り機に糸つむぎ。三和土の土間。座敷に奥座敷、納戸。
祖母の寝所、五右衛門風呂だった釜。手水は外にあった。
入り口の反対側は広い裏庭だった。
耕運機が置かれた納屋。その隣が牛小屋。対面に養鶏小屋があり、数十羽の雌鳥に雄鶏が一匹。受精卵で作った玉子料理は、現代のスーパーで売られている卵で再現することなど不可能だ。
その庭に面した濡れ縁からつっかけを履いて高野は外に出た。
納屋の横に自転車があった。小さな、小さな子供用のだ。それに跨って、高野は走り出した。
細い道路の左右は農家が並ぶ。
皆顔見知りで半分くらいは血縁だった町。いさかいなどとは縁の無いみんな幸せで平和な村だった。
一瞬の出来事がそれらを無情に押し流してしまうまでは。
公民館の近くまで来ると、その脇に小さな社があったのを思い出した。
子供の頃の遊び場。なにもないのだ。なにもない、ただ古びて朽ちかけた小さな祠があるだけだというのに、どうしてあの場所は遊ぶのにとても魅力的だったのだろうか、と高野は思い出し笑いした。

祠の前に辿り着いた彼は驚いて低い自転車から転がり落ちかけた。
「ま、まさか、なっちゃん、なつ姉ちゃん???」
祠の前に座っていた少女。彼が幼かった頃、一番仲良くしてくれた年上の従姉妹。
「やすしクン、待ってたよ」
ニコニコしながら、なつが手招きした。
「さあ、みんなが待ってるよ、いっしょに行こう」
「うん」
誘われて辿り着いた公民館の中には、数人の人々が固まっていた。
彼らは一斉に高野を見た。あまり顔色がいいとは思えない人々。皆疲れきった目の色をしている。
「やすしクン、この人たちを助けてあげて」
「助ける?ど、どうやって?」
「それは、あなたが一番よく分かっているはずだわ」
公民館は昔、木造のボロボロの建物だったが、近年建て直されたはずだ。しかし高野が幼かった当時の面影を残したままになっている。
高野は公民館の庭に出た。
「どこへ行くの?」
「どこにも行かない。ちょっと裏庭を見たいんだ」
なつもついてきた。
そこに流れている小川はごみひとつない清流だ。こんなに清らかな川は日本中探してもそんなにはもう見つからないかもしれない。
せせらぎが耳から入り脳まで心地よくくすぐった。
「なっちゃん、俺はね、東京でひどいことを沢山したんだ。人には言えないような、沢山の悪事をさ」
呻き声を搾り出すように、高野はなつに、告白するようにいった。
「俺みたいな穢れた人間に、人助けなんかできねえって」
とすすり泣いた。
「なにをいってるの、やすしクン。心の中にそんな思いがあるのなら、罪滅ぼしをしたらいいじゃない」
「罪滅ぼし……。できるのか、俺に……」
少女のなつは、細くて柔らかい腕をやすしの首に優しく巻きつけ頬擦りした。温かくて、いい匂いがした。
やすしは公民館の中に戻り、
「どうすればいい?」
と皆に訊ねた。すると、
「私は腎臓を」
「私は心臓」
「僕は肝臓」
それぞれが哀願するように、高野を見た。
「俺みたいなど悪党でも、あんたたちの役に立てるか?」
皆一様に、真剣な眼差しで頷いた。
「そうか、そうなのか」
高野の双眸から涙が溢れ落ちた。
なつが腰の辺りに抱きついていてくれて、高野は心がとても安らいだ。やがて、睡魔に襲われ意識を失った。

「刑事部長、昏睡状態だった高野靖史が、臓器提供の登録をしていたのはご存知でしたか?」
異例の事ながら、家宅捜索に自ら出張っていた刑事部長は、驚愕に目を見開いた。
「あの高野が、臓器提供だと?」
暗黒街の隠れた首領として警視庁がマークしていた高野靖史が、逮捕目前に脳溢血で倒れ、脳死状態と診断された。
これで捜査が振り出しに戻ってはたまらんと、刑事部長自ら出陣し高野宅の家宅捜索を行っていたのである。
部下のひとりが、暗黒街のボスにしちゃあ狭くて地味な部屋に住んでたんだな、とひとりごちた矢先に入った報せだった。
「しかも、自分には身内がひとりもいないから、預貯金はすべて、臓器を提供した相手の快気祝いや、ほかに移植を待っている人たちの見舞いに使ってくれと言い残していたそうです」
悪事で得た金はいったいどこに行ったのか、高野が持っていた金は汚れていない真っ当な金だったので、没収は免れることになるだろう。
「まるで自分の死を予見していたみたいですね」
「これで本人から自白は得られなくなっちまいましたね、くそお」
部下たちの言葉に刑事部長は答えず、
「捜索を続けろ」
と言い残して部屋を出た。
晩秋のどんよりとした空の雲が切れ、一条の光が地表に向かって射した。
「もしわたしの妹のなつが洪水で死んでいなかったら、あいつは道を誤らなかったのじゃないだろうか」
刑事部長は、一介の犯罪者としてではなく、同郷の知己、そして従兄弟として高野の思いを慮り、死を悼んだのだった。