第伍拾参夜

漣(さざなみ)

「遅刻だ遅刻だ」
立川は、さして慌てる様子もなく役所への道を歩いていた。
別に遅刻しても気にも留めない。
「マジメになんかやってられっか」
彼ら平職員が、町のために地域のために、色々頑張ろうと努力してみても、
「そんな提案、成功するかどうかも分からないのに予算が出せるか」
上司や古株で高齢の市会議員たちが寄って集って潰してしまう。
若手の向上心を年寄りが潰す。
ひいては、若者たちの夢を壊す国に繋がる。
「少しでも自分の町を良くしたいと思って公務員の道を選んだのに」
悔し涙に幾度袖を濡らしたことか。
そのうち、うだうだと日々を過ごすようになり、そんな自分が大嫌いになってきた。
曇天の重たい空の下いつもの通勤路の向こうに、何か違和感を感じた立川は思わず立ち止まった。
道路が揺れて見える。
(逃げ水か?)
バカな、こんな天気の悪い日に逃げ水など見えるわけがない。それにあれは逃げるものであって、近付いてくるものではなかったはずだ。
それはまるで浜辺に打ち寄せる漣(さざなみ)のように道路を、いや空間を小刻みに揺らしながら押し寄せてくる。
「な、なんだ、なんだってんだ」
立川は立ち尽くし、逃げ場を探したが、
「間に合わないっ!」

どおん

漣が通り過ぎた瞬間、耳元で大きな音がしたような気がした。
立川は腕時計見た。
「ややっ!いかん、遅刻じゃないかっ!」
慌てて駆け出した。
腰に巻いた腰蓑が膝に纏わりつくのも構わず、大急ぎで役所に向かった。
「今朝の朝礼の当番は俺だったーーっ!」
今週は安来節強化月間だったのだ。
「わがトンポロ国の来年の標語が内閣から発表されましたのでお報せします」
恒例の市長の挨拶が始まっていた。
「来年は『死ぬ日まで笑って暮らそうとんぽろろん』です。それでは皆さん、一斉にご唱和下さい」
数百名の職員が一斉に、
「死ぬ日まで笑って暮らそうとんぽろろん」
と真剣な顔で唱和する。すると市長が、
「ダメダメ、そんなマジメな顔してちゃ。笑って笑ってにこやかにもう一度っ」
今度はみんな目尻に皺を寄せ口角を上げ、
「死ぬ日まで笑って暮らそうとんぽろろん」
市長が満面に笑みを浮かべガッツポーズした。
そして朝の体操は安来節だ。今日の当番の立川、笊で泥鰌を掬うパフォーマンスにも熱が篭る。

トンポロ国の主要産業は農林水産業のほかは『笑い』である。
笑いを輸出して外貨を得る国であった。
二百数十年前までこの国は鎖国していた。
というのもかつての笑軍が国の笑いを奪おうとする西欧諸国を警戒し、外国との交流を一切断って、
「わが国独自で笑いを極めよう」
と決心したからだった。
しかし黒船でやってきた無駄に体格の良いアメリカ人たちが、
「お金を払っても良いからあなたたちの笑いを分けて欲しい」
と泣いて頼むものだから、
「仕方ない、それでは開国してやるとするか」
そんな事情でトンポロ国の『笑い』が世界を席巻することとなったのである。
それまで世界中に紛争が絶えなかったのだが、トンポロの商品、いや笑品が世界の隅々まで広がるにつれ、争いはなくなっていった。
だって生きているだけで楽しいのに争う理由などあるものか。
人口が首都や大都市などに一極集中することもなくなったので、身分差別や貧富のさも激減した。
どこにいても楽しいから、どこにいてもなんの仕事をしていても幸せなのだ。
「こんな幸せな国に生まれて、本当に良かったよな」
みんなそう思っている。
立川もそのひとりだ。
「地方も中央もなく貧富の差もなにもない。あるのは楽しげな笑いだけだ。本当にいい国だ」
だが、
「刺激がなくてつまんないような気がするけどなあ。それに笑ってばかりでテクノロジーの進歩もないから、自然災害に弱いじゃないですか」
と不満を口にする者も時々あった。
「バカをいうなよ、自然をコントロールしようなんておこがましいぞ。それに災害があったらみんなで被災者を手助けすればいい。それだけのことじゃないか」
「そういわれてみればそうなんですけどね」
概ね不平不満を述べるより幸福感に満たされている人間の方が圧倒的に多かったので、トンポロの国では大きな騒ぎは起きなかった。
「わが国は安泰です。未来永劫子々孫々までこの幸福が続くことでしょう」
国会の最終日にそう挨拶する総理。
与党も野党も関係なく喝采を送る。
そろそろ忘年会シーズンだ。
民間の人々が楽しい忘年会を実施できるよう手伝うのも立川たち公務員の仕事だった。
「定番のお笑いも大事だが、なにか新しいイベントも考えなきゃ」
と二ヶ月前から準備をしていたのだった。
そんな立川だが、時々ふと、
「なんだか、以前とても悪い夢を見ていたような気がする」
と眉を顰めることがあった。
その世界では愛を信じず平和を疎む一握りの人間が世界を支配し、常に戦乱と政情の混乱が途切れることがなかった。
争いで得たお金が一部の人間を潤す暗黒の社会。
「どうしてそんな夢を見ていたのだろうか。こんなにも幸せなのに」

雪がちらついている。今朝も遅刻しそうだった。
「夜中まで安来節の練習をし過ぎた~」
腰蓑にスーツ姿で走る立川は、前方から奇妙な違和感を感じた。
ゆらりゆらりと空間が漣を打っている。それは急速に近付き、
どおん
と立川を飲み込んだ。
「ああ、二日酔いだ」
地震に津波、原発はメルトダウン、いいニュースがまるでない。
被災した県の瓦礫を処分するのに協力しようと言い出したら、上司や市議会議員から集中砲火を浴び、吊るし上げられた。極悪人呼ばわりされ、
「辞表書くか?ああん?」
と脅迫された。
「こんな国に誰がした」
口惜しさからの自棄酒だった。
濁った顔で出勤し、同僚たちも互いに挨拶すら交わさない。
窓口が開くと、どんよりした顔の市民たちが仏頂面を並べていた。
「今年も終わるねえ」
顔見知りの爺さんが溜息をつきながら立川に言った。
「今年は災害が多すぎた。来年はどうなるんだろうねえ」
年金も打ち切りになるんじゃないかと爺さんは心配している。
立川たちなんか、年金が受け取れる年齢になる前に死んでしまうかも知れない。
隣に座っている後輩が、
「なんか、不思議な夢を見たんですよ」
夢の中でわが国は、笑顔を世界に輸出していて世界一豊かな国だった、と後輩が言う。それを聞いて立川は愕然とした。
「俺も、その夢見たような気がする……」
すると他の職員たちも顔を見合わせ頷いた。
誰かが、
「トンポロ」
と呟いた。
その言葉の響きの懐かしさに立川は思わず涙ぐんだ。