第伍拾弐夜

おかあちゃん、てぇつないで

仮出所が認められた直子は、持ち物を受け取った。
財布、小物入れ、運転免許証、入所する際預けた所持品たち。
あれからいったいどれだけの時間が流れたというのだろう。
運転免許証に見入る直子の目から、夥しい涙が迸った。
その理由がなんだったか、付添った刑務官たちには知る由もない。
二十数年。
直子が刑務所にいた時間は、人が生まれて成人するまで以上の長さだったが、彼女に下された懲役は元々無期だった。
「ム所の中で死ぬと思っていたのに……」
だが、仮出所が認められた。好んで申請したわけではなかった。そのままでいいと思っていたが、形式上拒否ができなかったので申請しただけだ。
女性刑務所の門を出るとき、外は重苦しいほどの曇天で、
(娑婆が受け入れを拒否しているみたいだ)
と感じた直子は怯え、刑務所内に駆け戻ろうとしたのだった。

世界は変わっていた。
二十年以上前に住んでいた町とは悉く変わり果て、
(こんな場所には住めない、どう住んでいいのかわからない)
と直子は怯んで暮らし始めた。
まだ五十四歳なのに、世間の五十過ぎとはあまりにもかけ離れていた。
(刑務所の中では、普通の倍老けるってのは、本当だったんだ)
とあらためて思い知らされた。

出所しても続いていることがある。
(あの夢)
ぱっつん髪の愛らしい女児が、膝の辺りに絡みついてくる。
(おかあちゃん、てぇつないで、ねえ、てぇつないでぇな)
直子は慄然とする。
ビクッ!
と足が踏み場を失ったようになって目が醒めてしまう。
心臓が、
バクンバクンバクンバクン
凄まじい鼓動を鼓膜に響かせる。胸の中で爆弾が連続して破裂しているようだった。
汗にまみれて固まった髪を顔から引き剥がすと、露わになった視界の向こうに、ありえない光景が浮き上がる。
「お母ちゃん、大丈夫?」
殴られて動けなくなった直子を心配して、顔を覗きこむ幼い女児が、
「見ないでっ!」
直子は大嫌いだった。
「あんたなんか、大嫌いだっ」
本当に嫌いだったのか。もしも本当に嫌いだったら、
「あの男を殺す理由はなかったはずだ」
子供たちの父親は離婚して以降一度も会わなかった。
いつの間にかたちの悪い男が家の中に入り込んでいた。
「どうしてあたしは、あんな男の言いなりになってしまったのだろう」
裁判の時も、それを質問されて理由を説明できなかった。
「理由が説明できるくらいにあたしがしっかりした人間だったら、保険金目当てに娘を殺したりはしないよっ!」
判事と検事に毒づいた。
国選の弁護士は、余計なことを言うなと言った。
だけどもう遅かった。最後の意見陳述。
次の判決で、直子は無期を喰らった。
だが、判例を重視するなら彼女は死刑でもおかしくなかったのだ。
娘を殺し、保険金目当てに唆した愛人の男も結局金のことが原因でトラブルとなり、そのブヨブヨの腹に大きな裁ちばさみを突きたてて殺してしまったのだから。
刑罰とは、殺した人間の人数によって刑罰が決まる。
中途半端だとム所暮らしが長くなる。
殺しすぎると死刑だ。
「情状を酌量しても無期懲役が相応しい」
という裁判官の言葉が遠いあの世に消えていくように、あの日は漠然と聞いていた。
長い刑務暮らしで、毎日早く死にたい、そのことばかり考えていたような気がする。まさか仮出所の日がやってきて塀の外に出るなんて。

身元引受人になってくれたボランティアの老女は、前科者を見る目ではなく、ごく普通の人を見る目で直子を迎えてくれた。
(母が生きていたら、この人と同じくらいだろうか)
母からの最期の手紙は、死後届いた。
「あんたが手にかけたとしても、あんたの娘はあんたの娘以外の何者でもない。そしてあんたも、あたしの大切な娘だからね。罪を償って仮出所できる日が来ることを心から祈ってます」
苦しい息の下でしたためたであろう文字を読み進めることができず、彼女は慟哭した。
その日ばかりは口さがない同房の者たちも、なにも言わずにそっとしておいてくれたものだった。
老女は、
「あなた、もうひとりお嬢さんがいたんでしょ。会いたくないの?」
「会ってはいけないんです。あたしなんか、絶対に会っちゃいけない。あたしのことを隠して、幸せになってくれることだけが願いです」
下の娘は、入獄する時まだ二歳だった。物心もついていなかったはずだから、きっと顔も覚えてはいないだろう。それが唯一の心の救いだった。
小さな清掃会社で、彼女は直子が経歴を隠していても誰からも詮索されないよう取り計らってくれた。
(でも、あたしを新しい人生が待っているなんて思えない、思いたくない)

彼女が割り当てられたのは大きなアーケードのある商店街の通路で、長さが一キロ以上もある。
その路上の清掃だった。
ガムがへばりついていたり唾を平気で吐く者もいる。
しかし彼女は嫌な顔一つせず無心で働いた。夢中になることで心の枷を一時でも忘れたかった。
家に帰れば否応なしに過去の自分と向き合うことになる。布団に潜り込んでも眠れない日が続いた。

いつものように掃除に精を出していた直子が、いつもより人通りが多いことに気がついたのは午後のことだった。
(そうか、今日は日曜日だったんだ)
大勢の家族連れ。自分はどうして、どこで人生を誤ったのかと自問自答した。この楽しそうな家族連れの中のひとりでないのだろうか。
事件は何の前触れもなく起こった。
激しい悲鳴。人々が逃げ惑い、直子の目の前が突然空隙となった。
遠くに、いや近くにも見える。
刃物を振り翳した若い男が、見境なく人に切りつけている姿。
逃げ惑う人々。
辺りがパニックになった商店街の路上で、直子は呆然と立ち尽くしていたが、突然、何かに取り憑かれたように猛然と走り出した。
小さな、三~四歳くらいの女の子が、泣きながら立ち尽くしている。
男が凄絶な笑みを浮かべてその女の子に近付く。
直子の耳の奥で、
(おかあちゃん、てをつなご、ね、てをつなご)
と谺した。
胸の中に幼女を抱き締め覆いかぶさったのと、背中に灼熱の激痛が走ったのと、
「邪魔するな、ババアっ!」
という絶叫が聞こえたのは皆同時だったような気がした。その瞬間、時間が止まったかのように。

暗い道をとぼとぼと歩く直子は、心のどこかで、
「これでやっと償いになるんだ、そうなんだ」
と考えていた。
「あたしは、地獄に落ちるんだ。もう、あの子たちには会えない。でも、それでいいんだ、それで」
肩の荷が下りたような、それでも下ろしてはいけないような、複雑な気持ちで直子はどこまでも続く闇を歩く。
不意に、
「おかあちゃん、てをつなご、てをつなご」
足元から声がした。
仰天してしゃがみこんだ直子の目の前にいたのは、紛れもなく自らの手で事故死に見せかけて殺した娘だった。
「おかあちゃん、あっちじゃないよ、こっちこっち」
直子の手を取り、娘は違う方向へと導いた。
眩しい光が穴のように開いていて、道はそこへ繋がっていた。
外へ出るとき、今は亡き老母の声が、
「あんたの娘はあんたの娘なんだよ」
聞こえたような気がした。

奇跡的に命を取り留めた直子にボランティアの老女は、
「あなたが助けた女の子のご両親がお礼に来ているのよ」
と告げた。会いたくない、誰にも顔を見られたくないと断ったが、
「それでは先方さんの気が済まないでしょうに。なにも悪いことをしたわけじゃないんだから。今来ていらっしゃるから呼ぶわよ」
幼女の手を引いて夫婦が入ってきたが、直子にはその顔を正視する事はできない。
娘が生きていれば、このくらいの歳なのだと思うと、胸が破れそうだった。
「娘を助けてくれて、ありがとう、お母さん」
直子は大きく目を見開き、若い女の顔を見た。
驚きのあまり、声を失い口の中は砂漠のように干からびていく。
直子が身を挺して守った幼女が、まさか自分の孫だったとは。
「世の中にはね、不思議なことなんて幾らでもあるのよ」
と老女が言った。