第肆拾伍夜

動画

汗だくで歩きながら、窪田はふと左斜め上に人の視線を感じた。
立ち止まって見上げると、それは無人駅の渡り階段の窓だった。
小さな四角い窓から、誰かがこっちを凝視しているような気がしたのだ。
だが、誰もいない。誰も見えなかった。
一時間に多くてニ~三本程度しか停車しない駅である。
今は最も利用者が少ない時間帯で、待合にも誰一人としていない。
このクソ暑いのに風通しの悪い階段付近に人がいるはずもない。
気のせいかと苦笑し、再び歩き出そうとした窪田だったが、今度は目の隅に人影を感じた。
すぐに振り仰ぐと、髪の長い人らしき影が窓の端に隠れるのが見えた。
(夏休みで暇をもて余した子供が、かくれんぼでもやってるつもりなのだろうか)
いずれにしろ、自分には関係がないし、こんなところに知り合いがいるはずもない。
なにしろ縁もゆかりもない土地に仕方なく引っ越してきて一年、いまだに知己もできないで孤独な日々を送っているのだ。
無視して再び歩き出した。
彼にとって唯一の楽しみはウォーキング。
一日二回爽快な汗をかく。
その後に呑むビールの味は格別なのだ。
だが、今はまだ昼。
呑むのは夜のウォーキングが終わってから。のべつまくなしに昼夜分かたず酒を呑むのは彼の理念に反するのだ。

日が落ちて窪田はようやく腰を落ち着け、テレビを見ながらビールを呑み始めた。
休みの日はこんなものだ。
夏場の定番で、怪奇現象特集などをやっていた。
最近はCGの進化とソフトの廉価化に伴い、素人でもお手軽に優れた特撮を作れるようになった。
大昔のインチキ心霊写真など比較にならないくらいに精巧な、心霊写真もどきなど画像加工ソフトでいくらでも作れるし、それどころか動画も特撮映画顔負けのリアリティに溢れた心霊現象やUFO(未確認非行物体)撮影動画も作れるようになった。
そのオンパレードでしかない、陳腐なバラエティ番組を見ていた窪田は、最初のうちは失笑していたが、
「そうだ……」
ふと思い立ち、
「俺もこんなの撮ってみよう」
と滅多に使用することのないデジタルカメラを取り出した。
ビデオカメラではなくデジタルカメラだが動画も撮れるしマイクがついていて音声も取れる。
簡単で短い動画なら、自分にも作れると踏んだのだ。
深夜、終電が終わる時刻を待って例の無人駅へと向かった。
「俺も物好きだよな」
と苦笑し、ほろ酔いで駅のホームに侵入すると、昼間人影を見たような気がした階段を上り始めた。
利用者もいない時間帯だから既に灯りは消えている。
懐中電灯で階段を照らしながら上がった。

不意に窪田は立ち止まって振り向いた。
じっとりと汗ばむ夜なのに、背筋がぞーっと冷えた。
誰かが、腰の裾辺りに触れたような気がしたのだ。
「ま、まさかな」
誰もいるわけがなかった。
苦笑いして、窪田は渡り廊下にまで辿りつくと、懐中電灯で向こう側を照らし、
「よし、向こうのホームまで行ってみるか」
わざと声に出した。
怖かったのだ。
廊下を歩いている間中、背後が気になったが、なぜか振り向く勇気が湧かなくなっていた。
そして対岸のホームへの階段を下り始めたときには、膝がガクガクし始めていた。
「なんだ、これは?」
焦りが額の汗となって浮き出してきた。
階段を下りる途中、小さな覗き窓に目が吸い寄せられた。
同じ位置に外側にも、そして対岸の階段にも窓が付いている。
勿論の昼間窪田が見られているような気がした窓と同じ高さというわけだ。
窓に近付き、窪田は闇を覗き込んだ。
「ひっ」
漆黒の闇のはずなのに、対岸の窓は薄ボンヤリと光を放っている。
「電気なんか、ついてなかったはずだ」
歯がかちかちとカスタネットのように音を立て始めた。
逃げ出したいのに、窓から目が離せない。
強力な磁石に固定された鉄屑のように、窪田は窓に張り付いて対岸のに朧に光る窓を見つめている。
と……。
なにかが、窓に現れた。
(黒髪?)
長い黒髪。
俯き加減。
ゆっくりと顔を上げ、こちらを向きかけた。
窪田は窓枠にへばりついて凍りついたようだ。
いよいよ、顔が窓に向きそうになった刹那!
がちゃん
足元でけたたましい音がした。
懐中電灯を取り落としたのだ。
と同時に我に返った窪田は、落ちて壊れた懐中電灯もそのままに、階段を転がるように下りると、反対側の出口から駆け出ようとした。
そこへ、
「ちょっと兄さん」
と声をかける者がある。
思わず悲鳴を挙げて飛びのいた窪田だちつたが、相手が酔っ払った男だと確認し、
「おい、こ、こんなところにいると危ないぞ、早く、早く逃げるんだっ」
と叫んで男の腕を摑み、一緒に外に出ようとした。
「なにいってんだよ、離せよ、おい」
酔った男は憤って窪田の手を振り払い、
「おらあ今夜はここの待合で寝るんだよ、へへ」
とホームに上がっていった。
遠くから汽笛が聞こえた。
深夜の貨物便が素通りするのだ。
「そうか、夜中でも電車は通るんだもんな」
窪田は自分の恐怖心で見間違いでもしたのだろうと、思わず失笑し、顔を挙げてあの酔っ払いを見ようとした。
そして、言葉を失いその場に凍りついた。
酔っ払いの男は、ホームに立ち尽くしていた。
いや、髪の長い白い服の女が、彼の体に雁字搦めに絡み付いて動きを封じているのだ。
男は何事かを喚いてもがいているが、女はビクともしない。
貨物列車が、凄まじい勢いで突進してきた。
ホームを通過する瞬間、
ぐしゃあ
という大きな塊がひしゃげる音が駅構内に響き、貨物列車は鉄が割れるような軋みの音を轟かせて数百メートル走りすぎて停車した。
恐怖に叩きのめされた窪田は、その場にへたりこんだ。

後々、彼は自分のデジカメを処分した。
なにもいなかったはずの無人駅で撮影した動画には、ずーっとあの黒髪の女が映っていたのだ。
チップをどんなにフォーマットしようとしても、その画像が消えないし、新しいチップを挿入してもあの動画が出てくる。
カメラごと処分するしかなかったのだ。