第肆拾肆夜

海岸

なんでこんなところにいるんだろう?
青木はぼんやりとした目をこすり、周囲を見渡した。
耳に入ってくるのは、涼やかな潮騒の音色。
木の壁の向こうは海なのだろうか。どうやら海の家の中で眠っていたらしい。
しかしどうして海の家なんかで眠ってしまったのだ?
起き上がり、立ち上がろうとすると首から側頭部にかけて鈍い痛みが走った。
いつもの首凝りかと思って手をやると、ぬめっとした液体で濡れていた。
どきっとして手の平を目の前にすると、どす黒い液がべったりとへばりついていて、なにか鉄臭い。
血か?
どうもそうらしい。
なにがあったんだ?俺はどうしてここにいるのだ?
青木は記憶を辿った。
そうだ、俺は……。

蝉が短い娑婆での暮らしをエンジョイした後、路面でひっくり返り断末魔を迎えていた猛暑の日、帰宅した青木を一通の手紙が待っていた。
妻の差し出した封筒の裏には署名がなかった。
宛名はパソコンの印刷だ。
「なんかのセールスじゃない?」
妻は関心が薄そうだ。青木もきっとそうだろうと思いつつ封を切った。
中に入っていたのは、便箋が一枚きり。書かれていた文字もただ一行。
だが、青木は全身の血が逆流し冷却されたような思いだった。
「どうしたの、急に顔色が」
驚いた妻が便箋を覗き込もうとしたが、
「見るな、なんでもない」
くしゃくしゃに丸めてポケットに入れ、
「もう寝る、明日も早いんだ」
「夕飯は?」
「いらない」
食事どころではなかった。
「誰だ、一体誰がこんな手紙を……」
もう一度封筒の表を見て青木は再び心臓を鷲摑みされたような恐怖を覚えた。
すると、印字されていたはずの自分宛の宛名が消えている。
便箋の手書きの文字も、薄れ消えていくところだった。
「八月●日N海岸で待つ」
封筒には、それだけ書かれていた。
「明日じゃないか。いったい、いったい誰が待っているというんだ」
妻と一歳半の娘はいつものように寝室で眠っている。
自分はソファでひとりで寝た。
翌朝日が昇る前に家を出た。そして関越を使い日本海側に向かったのだ。

二度と来るまいと誓っていた。
忌わしい思い出の残るN海岸。
七年前、まだ学生だったときのことだ。
心のどこかで(行くな)と留める声がしたのに、結局やってきてしまった。
「それから俺は……」
なにをどうして海の家で眠り込んでしまったのか?
ばっと立ち上がった青木は、慌てて外に駆け出した。
「ここは、この海の家は、あの爺さんの海の家だっ」
凄まじい怯えに足がうわついて走っている気がしない。まるで夢の中の駆け足のようだ。
夕暮れの砂浜に、人が寝ているのか倒れているのか。
誰かがいる。
「吉田だ、あれは吉田だ」
なぜそう思ったのか、うまく説明はできないが、近付いてみると間違いなく吉田だった。
「吉田、おい、どうしたよし……」
顔を覗き込んだ青木は棒を飲んだようになった。
右目は白目を剥いている。左目は何かで穿たれたかのように真っ黒い穴になっていた。
ぼかりと空けた口の中から、やどかりが這い出してきた。
「ひーーっ」
もう随分前に死んだかのように、水脹れして皮膚が剥がれ始めていた。
海岸沿いを逃げ惑う青木の目に、砂浜に正座してうな垂れている男の後ろ姿が見えた。
「あれは、佐藤、佐藤なのか?」
よろめきながら、転がりながら、もがくように青木は座った男に駆け寄った。
「佐藤、吉田が、あいつだ、あのじじいが」
男の横に倒れこむように座った青木は、ぜいぜいと大きく喘いだ。
が、次の瞬間、
「あーああーっ」
声にならない悲鳴をあげ、再び転げまろびつ逃げ惑い始めた。
座った男は肩から上がなく、赤黒い楕円から滝のように血が溢れ流れ出していた。
頭はどこに転がっていったのか分からない。
「ひーっひー」
四つん這いになって陸側を目指す青木の目の下に映った地面が、突然黒くなった。
いきなり日が沈んだかというとそうではない。
なにかが青木を背後から覆ったのだ。
ぶるぶると頬を震わせながら、青木はゆっくりと振り向いた。
と、そこには……。
「ぎゃーーーーっ」
あの老人が立っていた。
ずぶ濡れのあの老人が。
七年前、若き日の三人はここに遊びに来ていた。
ナンパにも失敗し、日も暮れて誰もいなくなり、気分がくさくさしていた。
三人は煙草の吸殻を捨て、ビールの空き缶を捨て、なんでもそこら中に投げ捨て撒き散らしていた。
見かねて注意しに来た海の家の老人は、言葉優しく、
「海が汚れると、魚たちがかわいそうだからさ、ゴミは投げないでくれないか」
と三人に声をかけたのだ。
ゴミ袋も持ってきてくれた。
親切な人だったのだ。
なのに、
「なんだジジイ!因縁つけてんじゃねえぞ、こらあ!」
気の短い佐藤が即座に立ち上がり、いきなり殴りかかったのだ。
ついで吉田も老人に襲い掛かった。
よろめく年寄りを二人がかりで袋叩きにし、
「こらっ、青木!てめえも手伝え!」
無理やり共犯にされ、三人で波打ち際に老人を引きずり、頭を海水の中に押し込んで窒息死させたのだ。
八つ当たりが暴走したのだが、三人は目撃者がいないのをいいことにそのまま逃げた。

それから七年、三人は二度と会わない、連絡を取り合わないと約束し、そのとおりこれまで忘れた振りをして生きてきたのだ。
だが、あの手紙に引きずられるように、この海岸にやってきてしまった。
「悪かった、ごめんよ、爺さん、俺は、本当はイヤだったんだ、無理やり協力させられたんだ」
這いながら逃げる青木の後ろを老人のシルエットがゆっくりよろよろと追ってくる。
青木はもうパニックの極致だった。
「ちょっとあんた、青木信輝さんだね」
突然頭上から声をかけられ、青木は声のした方を見た。
数人の男が自分を取り囲んでいるのを見て、
「た、助かった!た、助けてください、あそこで、人が死んでいるんです!」
と叫んだ。
「青木信輝さんだね」
年配の白いワイシャツにネクタイをした男が、もう一度訊ねた。
「そうだ、青木だ。それより、ジジイが追いかけてくるんだ」
と喚き返すと、両側に屈強な男が立ち、青木を引きずり立たせた。
「あんた、東京の自宅で奥さんと子供を殺害した容疑がかかっている。一緒に警察にきてもらおうか。東京の警視庁から、車を運転するあんたがLシステムに映っているのが確認されてね」
「妻と子?なんのことだ!俺はふたりが寝ている間にこっちに……」
ぼんやりとした記憶が、次第に鮮明になってきた。
「俺は、俺はなぜ……どうして女房と娘を」
記憶は、確かに自分が殺害したと雄弁に物語っている。
「さっきあんた、ジジイがどうとか言ったが、まさか七年前の殺人事件のこと、何か知ってるんじゃないだろうな」
青木は、もうなにがなにやら分からなくなっていた。
その時、遠浅の砂浜から声がした。
「警部補!こっちで人が死んでます。遺体はふたつ、鑑識呼びまーす!」
「おうそうしてくれっ」
と返した年配の刑事は、
「青木さん、いったい何人殺したんだね!」
とどすの利いた声で訊いた。
青木はただただ呆然として、怒りを湛えた刑事の顔を見つめていた。