第肆拾参夜

初盆

谷村みさきの初盆は、それは寂しいものだった。
母のゆりは僅か二十四歳で他界下娘の遺影の前で、頭を垂れたまま微動だにせず祈りを捧げている。
深夜となったが灯りをつけないまま。
ゆりは、生きているのか死んでいるのか自分でも分からないくらい、深い静寂の中に身を委ねていた。
不意に目覚めさせられた。
玄関でおとなうような声がしたからだ。
ゆりはノロノロと立ち上がって玄関に向かい明かりを点けた。
「谷村さん、夜分にすいません、吉岡です」
訪れたのはみさきの大学時代からの友人だった吉岡のぼるだ。
みさきと彼はいずれ結婚してくれるものと、ゆりは密かに期待していた。晩生のみさきは、中々彼の愛を受け入れることができなかったらしいが。
娘の遺影に手を合わせた若者は居住まいを正して母親に向き直り、
「お母さん、今更こんなことをと思われるかも知れませんが、実は僕、みさきちゃんを自殺に追い込んだ連中の目星がついたんです」
突然切り出した。


叶まさみの苛立ちは頂点に達しようとしていた。
息子が夏休みに入ってすぐ、同級生の母伊藤しのぶが、うろたえながら電話をかけてきた。
「あたしたちのこと嗅ぎ回ってる奴がいるみたいなのよ」
「嗅ぎ回るって、なにを?」
「なにをって、決まってるじゃない、あたしたちがいじめてたあの女教師のことでよ」
その言葉がまさみの怒りに火をつけた。激しやすい女なのだ。
「いじめてたってなによっ!あたしはなにもしてないしなにも知らないわよ!くだらないことで電話かけてこないでちょうだいっ!」
まだしのぶはなにか言いたそうに電話口で食い下がったが、まさみは無視して電話を切った。
その直後、今度は小学校の校長からも電話があった。
「実はですね、昨年亡くなった谷村教諭のことで……」
校長が切り出した途端、
「なんのことでしょうかっ!私には関係ありません、そんなことっ!」
またもや激怒して電話を切ってしまったのだ。
「あの忌々しい女教師めっ!死んだ後まで私を怒らせるなんて!」
こめかみに青黒い血管を浮き上がらせ、美しい顔を醜悪に捻じ曲げている。
それをドアの隙間から覗き見ている八歳の息子の貌には、ただならぬ程の怯えが浮き上がっていた。

「吉岡さん、あなたが娘のためになにかしようとしてくれているのは、とてもありがたいことだと思っているの。でもね、あなたまだ若いんだし、貴重な時間をそんなことのために使わないで、自分のために使ってくれないかしら。でないと、きっと娘も……」
優しげな笑みを浮かべている娘の遺影をじっと見つめ、
「なにか悩みがあったんだとは思ってました。だけど自殺するほど追い詰められたとは思ってなかったわ。あたしは母親失格ね。そもそも、あたしが悩みがあったらなんでも相談するような子に躾けられなかったのが悪いんだわ」
と目尻を拭った。
早くに夫を亡くし、娘と二人三脚で生きてきた。同時に、
「あの子に辛抱を強いていたのかもしれない」
とゆりは嗚咽を漏らした。
「お母さん、だからといって、彼女をいじめ抜いて追い詰めた奴らの行為が正当化されるものではありません」
吉岡は語気を荒げた。
「でもね、吉岡君。それをあなたがやって、自分の人生を台無しにしてしまったとしたら、娘は浮かばれないと思うのよ」
ゆりは穏やかな口調で、吉岡を宥めようとした。


叶まさみは深夜にも帰ってこない夫に対して腹を立て、できの悪い息子に腹を立て、つまらない電話をかけてきたしのぶと校長に腹を立て、リビングで自棄酒を飲んでいた。
夫の不倫は何年も続いているが、自分のせいだと考えたことはなかった。
彼女の悪い癖は八つ当たりだった。
子供のころからで、甘やかされて育ったからだ。傲慢で強欲で嫉妬深い。
その性格の当たり所として格好の餌食になったのは、新任の若い女性教師、谷村みさきだった。
若くて美しく、やる気が合って溌剌としている。しかも優しくて思いやりがあり、他人の言葉を真摯に受け止める。子供たちからも人気があり他の父兄、とりわけ父親たちの人気の的。
そのなにもかもが許せなかった。
まさみの妬み嫉みは人外の魔性にまで膨張し、同じように陰湿でねじくれた性格の母親仲間を巻き込んで執拗なイジメを開始したのである。
モンスターペアレンツに対し、学校側は逃げ腰だったし、まさみの父親は現役の議員ということもあって教育委員会に顔が利く。
元より学校長は教師たちの味方ではなく、教育委員会から派遣されてきている者だ。安楽椅子に座るために試験に合格してきた人間で教育の理念など微塵も持っていないから、まさみたちのみさきに対するイジメも見てみぬ振りをした。
他の教師たちの中には、理不尽な母親たちの行為にみさきを気の毒に思うものもいるにはいたが、自らの保身を優先させ誰も救いの手を差し伸べなかった。
結果、みさきは……。
「あの女が悪いのよ。わたしを怒らせたから。なによ、気に食わない!何もかも気に喰わなかった!」
まさみは鏡に映った、鬼女さながらの自分に向かってグラスを投げつけた。
酔った勢いは恐ろしい。
まさみはいつの間にか車のハンドルを握っていた。飲酒運転など意に介していない。
校長の家に着くと、ベルも鳴らさずドアの取っ手を引いた。
施錠されていなかった。
ソファに座っていた校長は、まさみの姿を認めて驚いた表情をみせたが、
「まさみさん、さっきはひどいじゃないか、せっかくマスコミがかぎ回っているから、気をつけなさいと教えようとしただけなのに」
と笑った。
二人は愛人関係にあり、みさきを死なせた共犯という背徳の喜びを分かち合っていたのだ。
「旦那はまた不倫かね、まあ座って一緒にやらないか」
校長の妻は数年前に死別していた。
タオルをばさりと落としたまさみの手元を見て、校長は息を呑んだ。
「な、なんの真似だっ」
「あんたが死ねば、事情を知り尽くしている人間はいなくなる」
まさみの双眸の奥で狂気の炎が荒れ狂っていた。
校長の腹から、包丁の把手が生えているようだった。
「次は、あの女だ」
血塗れのまさみはもう一本の包丁を手にしのぶの家に向かった。


ゆりの言葉にがっくりと肩を落とした吉岡だったが、それでも、震える声で、
「お母さん、でも、僕は、僕にとっては、みさきちゃんがいなくなったこの世界で、生きていく意味なんてないんです」
嗚咽混じりに、呻くようにいった。
肩がわなわなと震えている。
「お母さんの前で、こんなことを僕が言うのは、し、失礼かもしれませんけど、本当にこの一年間、何度死んだほうがましだと思ったことか……」
ただ復讐のために、証拠と証言を得るためだけに生きてきたのだと。
それを聞いていた母親は、わっと泣き出した。そして、
「吉岡君、ありがとう、本当にありがとう。娘が、こんなに愛されていたなんて、それが分かっただけで、あたし十分幸せです。でも、お願いだから死ぬとか言わないで、復讐なんか考えないで。あの子のためにも。お願いします」
母親は、吉岡に向かって土下座し懇願した。
吉岡は言葉を失った。
その時……。
「吉岡君、ごめんね、ちゃんと相談せずに。あなたに相談していたら、こんなことにはならなかったのにね」
ふたりはハッとしてみさき遺影を見た。
その奥の仏壇に、薄明るい影がぼんやりと浮いていた。
「お母さん、吉岡くん、ごめんね……」
影は次第に掻き消え、やがて見えなくなった。
ふたりは抱き合って泣いた。
声が嗄れても。
夜が明けるまで泣き続けた。

九朝、谷村家で朝のニュースを見ていた吉岡は、突然驚きの声を上げた。
「どうしたの、吉岡君」
朝食の用意をしていたゆりに、吉岡はテレビの画面を指差し、
「こ、この女の人がみ、みさきを……」
殺人容疑で逮捕されたまさみが連行されていくところだった。

その後、しのぶたち数名の母親グループが、谷村みさき教諭に対し執拗なイジメを行っていたことが発覚、ワイドショーでは、まさみの長男が、
「ママは大嫌いだったからいなくなって嬉しい」
と語ったことを報道した。