第肆拾弐夜

襲撃

スーパーに向かう横断歩道を渡っていた永田は駐車場から飛び出してきた軽自動車が、猛烈なスピードで自分に向かって突進してくれるのを信じられないような目で見たのも束の間、慌てて歩道に身を投げ出し命拾いした。
軽自動車は目標を見失ったまま激走して電柱に追突した。
「なんだ、なにが起こったってんだ?」
膝を硬いアスファルトにしたたかにぶつけ激痛に顔を歪めつつも、永田はドライバーの身を案じて駆け寄った。
「大丈夫ですか」
と声をかけると、年配の女性が血だらけで呻き声をあげている。
「今、救急車呼びますからね!」
慌てて一一九番を呼び出しながら、永田は周囲に目をやった。
誰か、手助けしてくれる人を探したのだ。
だが、永田は愕然とした。
通りに人はさして多くはないが、決して無人ではない。
それなのに、救出を手伝うどころか誰ひとりとして近付いてくる者はおらず、視線を向ける者とていない。
皆一様に無関心で事故など目に入らないかのようだ。
遠くから救急車のサイレンが近付いてくる。
永田はその間抜けな音を聞きながら、この事故が何かの冗談なのではないかと奇妙な錯覚に囚われていた。
そして、彼は再び慄然とする。
担架に載せられ救急隊員に運ばれていく老女が、助けを呼んでくれた永田を凝視するように見据え、
「口惜しい……」
聞こえよがしに、あからさまに口走ったのである。

警察の現場検証はおざなりだった。
膝を強打したことを訴えたが、永田の存在すら無視された。
「いったい、どうなってるんだ?」
事故の原因についても何もしらされず、追い払われるように永田は帰宅した。
時間が経つにつれ、段々腹が立ってきた。
「俺はもう少しでひき殺されそうになったんだし、怪我までしている。通報したのも俺だ。なのになんだ、この扱いは」
夜も眠れないくらいに腹が立ったが、明け方まどろんでからは、
「腹を立てても仕方ない」
と思いなおし、
「運転していたおばさんが怪我だけで済んだのも不幸中の幸いだ」
と思うことにした。

引っ越してきてようやく半年、周囲となかなか馴染めないのは、自分が独身で転勤族だから仕方ないと諦めていた。
今までの土地でも馴れたころに引越しするものだから、今度もどうせ同じと思い、あえて周囲とコミュニケーションは持たないようにしていた。
職場では淡々と事務仕事をこなす。
営業マンだったらもっと地元と馴染めるのかもしれないが、彼の担当は事務なのだ。
そして同僚たちとの会話も少なかった。
とはいえ、元来人のいい永田は他人に対して親切だった。
荷物を抱えて往生している年寄りに手を貸したり、泣いている子供を家まで送ったり、些細だが人をいたわる心を持ち合わせている。
人を嫌ったり憎んだりしたことはなかったから人から憎まれ怨まれる覚えはない。
あの事故を起こした老婆が自分を睨んで、いったいなにを口惜しいといったのか理解できない。
だが、考えても考えても思い当たらない。
(あのばあさんには見覚えがない。まして怨まれる覚えなんかまったくないのに)
なにが口惜しかったのだろう。
あの憎々しげな眼差しはなんなのだろう?
そして現場検証に当たった警察官たちのあまりにも冷ややかな態度が心細かった。
無視されることほど恐ろしいことはない。永田は、人から嫌われたり無視されたりされないよう、できるだけ穏便に他人に対して親切に、害のないように生きてきたつもりだった。
なのに、どうしてかこの街では全くといっていいほど溶け込めない。町全体から敵視されているような、不気味な錯覚すら覚えていた。

梅雨が明けて一気に真夏になり、熱帯夜が訪れた。
眠れぬ夜となった今宵、永田は全ての部屋の窓を全開にした。少しでも節電に協力かるため、エアコンのリモコンには指一本触れていない。
布団にゴロリと横になっても暑くて中々寝入ることができなかったが、零時を過ぎたころか、次第に涼しくなって永田はすーっと気持ちよく寝入った。
魚か何かが焦げるような匂いがしたのは夢の中だったか、ふと目が醒めて瞼を開けると、
「げえええっ」
苦い煙が目と喉に流れ込んできた。
飛び起きた永田は、火事だと思い、慌てて逃げ場を探した。
借家の外周は火の海で逃げ場がない。怯んだ永田だったが、家の裏手に駆け込んだ。幸い裏口はまだ燃え始めておらず、なんとか逃げ果せた永田は、大声で火事だと叫んだ。が、近隣から駆け込んできた見知った顔の住民がいきなり、スコップのような物で殴りかかってきたのだ。
「な、なにをするんだ」
咄嗟に避けたが、別の誰かが殴りかかってきて肩を負傷した。
決死の思いでその場から逃れた永田は、追っ手から逃れて地域の立派な建造物である公民館に逃げ込んだ。
その中にいた連中が、驚き慌てて立ち上がった。
「ど、どうしてこいつがここに来たんだ!」
「襲撃は失敗したのか?」
「まずいぞ、この襲撃が失敗したら、もんもんさまが暴れだすぞ!」
「みんな、こいつを捕まえろ!殺せ!生贄だっ!」
飛びかかってくる連中を掻い潜り、永田は室の奥に転がり込んだ。
奥に置かれていた折り畳みのパイプ椅子を引っつかみ、襲い掛かる者達を次から次へと引っ叩きなぎ倒した。
ようやく老婆の口惜しい思いの理由が分かった。このままでは(殺される)と思った。
壁に張り紙があった。
「よそ者は悪人です」
「どんなに善人の振りをしていても偽善者です」
「この街に入れてはなりません。もんもんさまの祟りがあります」
「よそ者が入ってきたら、理由の如何を問わず必ず殺しましょう」
●●町内会●●市役所
●●市長〔印〕
まで記されていた。
もんもんさまがなんだか分からないが、自分はスケープゴートなのだと永田は気付いた。
公民館の中にいた連中を全員なぎ倒して外に逃げようとしたが、外周囲は住民たちに埋め尽くされている。
合唱が聞こえてきた。
「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」
遂に永田はキレた。
「なんなんだよ、なんだよ、もんもんさまって!なんで俺がなにをしてっていうんだよっ!説明しろよーっ」
すると、たった今なぎ倒した老人が永田の足首を摑んで言った。
「あんた、転んで膝をすりむいた女の子を助け起こしたろ、スーパーで」
いわれてみれば、母親を追いかけていた小さな女の子が転んで泣いていた時に、助け起こしたことがある。
「あんたをひき殺そうとしたばあさんは、それが気に食わなかったのさ、あれは偽善者のやることだからな」
ヒヒッと笑った。
公民館を囲んでいる連中は、皆永田を偽善者と信じ、それが気に喰わないから殺そうとしている。それが街の風習なのだと老人はいった。
そして、斧を振り翳して永田の足首を斬り落とそうとした。
「ひーーーっ!」
もみ合いになり、永田は老人から斧を奪い取って彼の頭蓋骨を叩き割った。
すると老人は、
「ほら、やっぱり偽善者だった」
と笑いながら死んだ。永田は、
「違う、違う、違ーーうっ」
喚き散らしながら斧を振り回して駆け出した。
「出て来い、出て来い、もんもんさまって奴、出て来ーーーい!」
何人かと斬り合ったが多勢に無勢、永田は肩から胸にかけたざっくり斬られ斃れ付した。
黒い闇が彼の意識を覆うとき、貧相な老婆のような姿をしたものが彼の目の前に現れ、
「こうやって我らは均衡を保っているのじゃ。悪く思うな」
と笑った。
ふざけるな、と思った瞬間、完全に意識は遮断された。