第肆拾夜

侵略

誰の目にも見えないようなのだが、伊藤の背中に巨大な蜘蛛が張り付いているのだ。 最初それに気がついたときには、心臓が止まるかと思った。
大人の手の平二つ分もありそうな巨大な蜘蛛は、赤と黄色と黒という毒々しさの三原色で彩られ、密生した針のような毛で全身覆われている。
八つの足がワイシャツをしっかりと鷲摑みにし、社内をうろつき回る伊藤の背中にしがみついているかのようだ。
息を呑むほどの異様な光景であるにも関らず、誰もが無関心なのはどういうことだろう?
私はいたたまれず、伊藤を追いかけ、背後からは肩を叩けなかったので急ぎ足で追い越し回りこんで声をかけた。
「どうしたんですか、笹口係長」
怪訝な顔つきの伊藤はいつもと変わらない様子に見えた。
が、メガネの奥の目の下をよく見ると、そこだけ違う。
濃い疲労が隈取となって現れていた。
「ず、随分疲れているみたいだけど、大丈夫か?」
「そうですか?そんなには感じていないですけど」
と表情ひとつ変えない。
社内の通廊を行き交う人々の誰も、伊藤の背中の蜘蛛には注意を払わない。ということはやはり、見えているのは私だけなのだと気がついた。
「そうか、それならいいんだが、あまり無理するなよ」
誤魔化し笑いして、私はそそくさと彼の前から立ち去った。
ちらりと振り向くとまだあの巨大な蜘蛛は彼の背中にいた。
ほかに蜘蛛を背負っている人はいないようだが、その日から私は他人の背中が異常に気になるようになってしまった。
特に朝、通勤電車に乗る前には周囲に蜘蛛を背負った人がいないか確認して載るようにした。
満員電車の中で鼻先にあんなモノを突きつけられた日には、生きた心地もしないからだ。
最初に伊藤の背中に蜘蛛を目撃してから三日目、ついに他の蜘蛛も見つけた。
朝の通勤電車を待つホームで、それは三十前後のOLらしき女性だった。
か細い背中を覆い隠すほど巨大な蜘蛛。
彼女はしきりに首や肩を撫でたりさすったりしている。
首凝りなのかもしれないが、確かにこんな巨大な蜘蛛を背負っていたら、肩も凝るだろうし頭痛もあるかもしれない、と私は思った。
私は当然彼女から遠く離れた場所に並んだ。
(誰も彼女の背中に気を払わない)
分かりきっていたことだが、それがかえって不気味だった。
その日は他に蜘蛛を見ることはなかったが、私の緊張は一日中続いた。
もし途中の駅で蜘蛛を背負った人が乗ってきたらと思うと、気が気ではなかったのだ。
その不安は翌日的中した。
身動きの取れない超満員の車両に、蜘蛛を背負った背の高い男が乗り込んできたのだ。
肩幅も広い。
巨躯の者に取り付く蜘蛛は、比例して大きくなるようだ。
今まで見かけた蜘蛛の二倍は雄にある。
それが私の前に来たのだ。
必死で顔を背けようとするがまったく身動きならない。
もさもさとした毛を生やした蜘蛛の腹。
それが男の背中と私の顔の狭間でぶにょりと潰れ、その思いがけない柔らかな感触に私の嫌悪感は激しく反応して絶叫を上げた。
「蜘蛛、くもーーーーっ!」
その叫び声に車両内はパニックに陥った。
「え?蜘蛛?どこ?」
「いやあっ!蜘蛛嫌いっ!いやあ!」
蜘蛛が嫌いな人は思いのほか多かったのだ。
だが、こんな大きな蜘蛛が目の前にいるというのに、どうしそて誰も気がつかないのだ?
背中に蜘蛛を這わせた巨躯の男は、自分が嫌悪の対象になっているのだとようやく気付き、私に向かって、
「俺のどこに蜘蛛がついてるってんだよっ」
と激昂した。
背中と私が答えると、停車したと同時に人ごみを押しのけてホームに出た。
そしてスーツの上着を脱いだのだが、その瞬間、私は更に奇異な光景を目にした。スーツにしがみついて見えた蜘蛛は、スーツを脱いだ瞬間に位置をワイシャツの上に変えた。
マジックか軽業、そうテーブルに皿を置いたままテーブルクロスを引き抜いたかのようだ。
男はホームで蜘蛛を見つけられなかったのに腹を立て、怒りも露わに閉じた電車のドアを蹴りつけ駅員と揉めていた。

出社した私は別の異変に気付いた。
伊藤の背中に蜘蛛がいない。
その代わり彼はとても元気がなく、腹を抑えてうずくまるような姿勢で仕事をしていた。
「おい、大丈夫か、伊藤クン」
と声をかけると、
「最近、肩凝りはなくなったんですが、腹が時々痛くて」
と顔を顰めた。
そうだ。
蜘蛛は伊藤の腹に産卵したのだ。
そう思うともういたたまれず、私は全身から血が引くような思いで会社を早退した。
巷は蜘蛛を背負った人々で溢れ返っている。
なのにどうして誰にも見えないのだ。
私は悔しさと憤怒に駆られ、気がつくと蜘蛛に向かって殴りかかっていた。
だがそれは、ただ単に、通行人に対する暴行でしかなかったのだ。

取調室の刑事にも、検事にも裁判所の判事の背中にも、蜘蛛はいた。
誰も見えていなかった。
今回の一連の事件で私はつくづく自分が嫌になった。
「私にも、ほかの人と同じように蜘蛛が見えていなかったら、どんなにか幸せだったろうか」
執行猶予がついたが帰る家も職場も失った。
巷には、蜘蛛を背負った連中が更に増え、テレビや新聞は原因不明の突然死の増加を報じ、キャスターが憂いの色を浮かべている。
私にはその原因がわかる。
これは、かつて考えられなかったある種の侵略なのだ。
だが、どう説明すればいいというのだ?
誰の目にも見えないものなど、誰が信じるというのだろう?