第参拾玖夜

紫陽花、そして夾竹桃

一一〇番で呼ばれた若い警官は、一軒の家の前で待っていた中年の女性と合流した。
「なにがあったんですか?」
女性は近所の主婦だという。
「ここの家はお年寄りのふたり暮らしでね、ご主人はもうほとんど寝たきり、面倒見てる奥さんも足が弱っててさ。あたし近所だから時々様子を見に来てるんだけど、ほら」
と彼女が目で指し示した玄関前には、小さな女の子が座っている。
黒髪の長いのを真っ赤なリボンで結んでいて、自分の体の半分くらいありそうな大きな人形を抱きしめ、その胸の辺りに顔を埋めて蹲っている。
「見たこともない子なの。なにをいってもどいてくれないのよ。なんだか気味が悪くて」
拍子抜けした警官は苦笑して少女の前にしゃがむと、
「お嬢ちゃんはどこの子かな?ここのおうちのおじいちゃんおばあちゃんと知り合いかい?」
と話しかけた。
警察学校で迷子の扱い方は一通り講習を受けている。こういうときこそ腕の見せ所だった。
だが、少女は微動だにしない。
大きな人形の腹部に自らの顔を押し付け、息すらもしていないようだ。
その時だった。
玄関の僅かに開いた隙間から、人の呻き声のようなものが聞こえたのだ。
警官は慄然とした。
家屋の内部で、何かが起こっている。
それは緊急を要する事態に思えた。
「お嬢ちゃん、通るよ」
と彼が少女を跨ごうとした刹那。
ズボンの太腿の辺りがガシッと摑まれたかと思うと、彼の決して小さくはない体躯は宙を舞い、門扉付近の中年女が立ち尽くしている辺りに投げ飛ばされた。
いったいなにが起こったのか理解できず、警官は目を白黒させながら少女を見、ついで中年女を見た。
少女は相変わらず少しも動いていないように見えたが、中年女は顔面が蒼白になっていた。
「お、お、お、お化け、お化けーーっ」
と叫び出すと同時に、サンダルを蹴散らすように駆け出し、そのまま逃げ去った。
いったいなにに怯えたのか理解できぬまま、警官は叩きつけられた腰をさすりながらようやく立ち上がり、
「君が、俺を投げたのか?」
信じられないけれどもほかに人がおらず、少女にそう訊いた。
すると、
「…邪魔させない…」
とても少女の発する声とは思えない、地の底から響いてきたような暗く重々しい声に、足が竦んだ。
「君、いったいなにものなんだ」
玄関扉の隙間から漏れ聞こえていた呻き声が途切れた。
ついで、すすり泣くような声が響き始めた。
すると、それまで座り込んでいた少女がふわりと立ち上がった。
そして、
「…終わった…」
呟くようにいった。
そして人形をゆっくり自分の顔から離し、初めて顔を見せた。
警官は慄然として仰け反った。
まだ五歳前後の少女であることは間違いない。
だが彼女の目は、凄まじいほどの憎悪と怨念に満ち満ちていた。
「あんたたちがぼやっとしているから、おじいちゃんとおばあちゃんに、こんなひどいことをさせることになった」
呪文のように、だが確かに彼女はそう呟いた。
「役立たずの警察官たち」
それだけいうと少女は、
ふっ
とかき消すようにいなくなった。
警官は萎えた両足に渇をいれ、勇気を振り絞って室内に駆け込んだ。


「兵頭さんのお宅で亡くなっていたのは、介護の会社に勤務している中野修司三十三歳。ほとんど寝たきりの兵頭仁一郎さんと奥さんの規子さんが二人がかりで絞め殺したんだ」
あの日現場に駆けつけた若い警官の証言で少女の似顔絵が作成されたが、その完成した画を見て、皆沈黙した。
三ヶ月前に公園で発見された少女の遺体。
その当人だったからだ。
「兵頭さんのご主人は庭の夾竹桃の樹液を飲んでいて、しばらくして亡くなった。元々心臓が弱っていたからてきめんだったろう。奥さんも紫陽花の葉から抽出した液体を大量に飲んでいた。中野を殺した後、ふたりとも死ぬ覚悟だったんだ」
まさか、少女を殺した犯人が近隣でも評判の良いデイサービスの介護士だったとは。
前科もないし捜査対象からは完全に外れていた。
今わの際、兵頭規子は、
「殺されたゆいちゃんは、あたしたちの天使だった。あの男はゆいちゃんをうちで見かけて邪な考えを抱いたの。ということは、あの子が殺されたのはわたしたちのせい。だからわたしと夫は責任を取りました」
と若い警官に告げた。
立証できる証拠がなかったから、告発できなかったのだと。

兵頭夫妻は町会葬になったが、その通夜のとき、数人の人がゆいちゃんを見かけたと証言した。
事実は定かではない。

高い空の彼方に雷鳴が轟き梅雨明けを告げた。