第参拾漆夜

ぬけがら

「きゃあっ」
郁美の絶叫に驚いた芳郎は、
「どうしたっ」
慌てて納戸の中に駆け込んだ。
郁美は納戸の隅で古い箪笥を指差している。
その指の延長線上にあるものを、恐る恐る覗き込んでみると、
「なあんだ、脅かすなよお」
芳郎は呆れ顔で苦笑し、箪笥の最下段の引き出しから、人差し指と親指でひらひらしたものを抓み出した。
「いやあ」
郁美は泣き出しそうな声を上げて、両手で顔を覆った。
「これ、ただの蛇の抜け殻だぜ」
と笑った芳郎の言葉も郁美の耳には入りそうもない。

居ぬきのような形で実家が手に入った。
ひとり息子の芳郎と郁美の夫婦にとって見れば、濡れ手に粟の遺産相続だった。
「一度も挨拶さえしたことなかったのに、いいかな、もらっちゃって」
嬉々として部屋の中を飛び回り、家の中のあちこちを開けては広げ、はしゃぎ回っていたのだ。
そして納戸に入った途端、この体たらくだった。
「知らないのか、昔から箪笥に蛇の抜け殻を入れると、大金持ちになれるっていうじゃないか」
と蛇の抜け殻を引っ張り出し始めた芳郎の顔つきが、次第に色を失っていった。
「なんなのよ、その長さは、本当に蛇の抜け殻なの?」
郁美が声を震わせた。
二人の目の前で堆く積もっていく抜け殻のとぐろ。
その長さは優に、五メートルを超えていて、最後の方は千切れていた。
「き、きっと外国でお土産かなにかで買ってきたんだよ。日本にこんな長い蛇がいるわけないもんな」
はははと笑った芳郎の顔つきが強張っている。
郁美の激しい怒りに圧倒され、芳郎は巨大な蛇の抜け殻を庭で落ち葉と一緒に焼いた。
この辺りは庭で焚き火をしても近所から苦情が出ないような田舎だったのだ。
しかし、皮は凄まじい悪臭を立てしばらくの間は庭に出られないほどだった。
焼き尽くした灰は、庭の片隅に穴を掘って埋めてしまった。
「もったいないことしたような気がするんだけどな」
とひとりごちる芳郎に、
「バカなこといわないで、あんな気味の悪いもの!」
郁美は吐き捨てたのだった。

数日が経ってからのことだ。
目の下が薄黒く窪んでいる郁美を見て芳郎は、
「どうしたんだ、寝不足かい?」
と訊いた。すると、
「あなた、よく眠れるわね、夜中とっても寝苦しいのになんともないの?」
妻の話によると深夜突然暑苦しくなり、目が覚めているのか寝ているのか判らないような半覚醒状態に陥るのだという。
「するとね、なんだか変な匂いがするのよ。生臭いというか、なんだかこう、生き物の汗臭い蒸れたような匂い」
それが原因で寝られないというのだが、折りしも入梅したばかりの田舎町は、その空間が常に濡れた土の匂いに満たされている。
初めての田舎暮らしに、郁美は神経質になっているのだろうかと、
「多分あれだ。慣れるまで眠れないと思うんだ。しかも梅雨に入ったしさ。酒でも飲んで酔っ払って寝ればいいんじゃないか」
あまり深く考えもせず、芳郎はそのまま仕事に出かけた。
郁美は昼間、ひとりきりでこのただっ広い田舎の家にいることになる。
数日たったころ、郁美の様子は好転していた。
とても元気がよく、最近は雨中にも関わらず庭の手入れにまで手を出しているらしい。
芳郎はそんな郁美の様子を見て、結局慣れたのだからそれでいいかと放っておいた。
妻の調子は日に日に良くなり、血色もよく食欲も増してきた。
ただひとつ変わったことがあった。
夫である芳郎を避けるようになったことだ。
部屋がたくさんあることを理由に、寝室を別にしたいと言い出した。
梅雨が明けるころ、ふたりの間には夫婦としての関係は皆無となっていた。
その時期にいたって、ようやく芳郎は妻の様子に不信感を抱くようになっていた。
(まさか、ほかに男でも作っているのではないか)
監視カメラを家の中数箇所に仕掛けた。
もちろん、妻が単身で寝室に使っている部屋にもだ。

妻の目を盗んで、盗撮した映像を記録したUSBメモリを取り外し、会社に持っていって再生してみた。
家で見るのは気が退けたのだ。
妻は日中殆ど家の中にいる。
家事と庭弄りの毎日だ。
だが午後のある時間だけ様子が違った。
監視カメラが突如幕のようなものに閉ざされ、室内の様子が見えなくなったのだ。
それは毎日同じ時間。
芳郎は意を決して会社を休み、その時間に妻の寝室に乗り込むことにした。
ところが。
襖は釘で打ち付けられたかのようにびくともしない。
「郁美!開けろ!なにしてるんだ!」
逆上した芳郎が力任せに襖を踏み倒そうとするが、内部から強い弾力のある力に押し返され、押し倒すことができない。
「こらあ、郁美!いい加減しろ!ここを開けろっ」
声を嗄らして妻を呼び、そして詰るが応えはない。
と、内部から、
空気を擦るような不気味な摩擦音が漏れ聞こえてきた。
そして、ずりずりと何かが這いずり回る様な音。
その瞬間、芳郎は冷水を浴びせられたように震え上がった。
何か巨大な生き物が、中で蠢いている。
ダダン!
激しい音を立てて襖が弾けた。
真っ二つに割れている。
寝室の中を覗き込んで、芳郎は息を呑んだ。
まるで嵐が吹き荒れたかのように、荒れ放題に荒れていた。
そして郁美の姿はなく、ただ壁といわず床といわず、波のように文様が細長く、部屋中にのたくるようについていた。

郁美が戻ってくることはなかった。
警察に捜索願を出し、USBメモリに残った映像も提出したが、警察はきょとんとした目を芳郎に向けたのみだった。
芳郎は実家から出ることにした。
かつて彼の実家だったはずの家は、彼を拒絶しているかのように見えたからだ。
妻も家も失った彼はまさしく、ぬけがらだった。