第参拾陸夜

亡霊

夕刻。
灯を点さない部屋の片隅に、人が立っている。
それが亡霊だということには、すぐに気がついた。
透き通って向こう側の壁が見えている。
だが、なぜそこにそれが立っているのかはわからなかった。
近づいてくるでもなく、なにか話しかけてくるでもなく、ただそこに立っているだけである。
僕はしばらくその影のような亡霊を凝視していたが、しばらくしてまたパソコンのモニターに目線を戻した。
押している仕事の方が重要だったのだ。

数時間が経過し、家の中は闇に包まれていた。
僕の手許の灯りだけが、ぼうっと部屋の中で明るい。
いや、もうひとつ明るかった。
部屋の隅の亡霊が立っている部分も、同じようにぼうっと明るかった。
服装からして、女性のようだった。
もうすぐ妻が帰宅する。
怖がりの妻がこんなものを見てしまったら、いったいどんな騒ぎになることだろうか。
いや、妻はもう帰ってこないのだった。
そうだ。彼女は僕を見限って出て行ったのだ。
というより、もっといい男ができたのだ。
そんな彼女の不倫の事実を僕が知らないとでも思っていたらしい。
裁判沙汰になった場合、遅れを取らないための準備くらい、僕だって怠ってはいない。
見栄えの冴えない僕のような男より、見掛けのいい男の方がモテる。
一時はそんな不公平に業を煮やしたこともあったが、最近ではちっとも気にならなくなった。
考えるだけでバカバカしくなった。
だから離婚届を突きつけられても、どうせ自分は不細工なのだから、とあっさり受け入れることができたのだった。

そんな僕だから、女性に恨みを買うような覚えなどない。
離婚したのはホンの数日前だし、彼女が死んだという話も聞いてない。
仮に突然死んでいたとしても、僕が恨まれるような筋合いは微塵もないはずだ。
だからこの亡霊は元妻ではないのだろう。
うな垂れているので顔は長い髪に隠れて見えない。
近づいてどんな顔なのか確認するべきかどうか悩んだが、躊躇った挙句やめた。
さすがに顔を覗き込むのは怖かったからだ。
覚えもないのに恨めしそうな目で見られたりしたら堪らない。
仕上がった文書データを契約している会社に送信し、仕事が一段落した。
本来ならこれから一杯やって自分を労うところだが、ちょっとそんな気はしない。
なにしろ三メートルほど離れた場所に亡霊が立っているのだ。
ビールを飲みながらテレビを見る気にはなかなかなれない。
かといって、今日は朝ちょこっと口にしただけで何も食べていない。
腹が減っていてぐーぐーとやかましく呻いていた。
離婚したばかりで買い物の習慣もまだ身についておらず、冷蔵庫は空っぽだ。
ビールと乾物と缶詰しかない。
「外に喰いに出るか」
外出は気が進まなかったが、亡霊と同室で食事をするのは気が重い。
着替えて玄関に向かう。
僕は凝然として立ち尽くした。
亡霊が、玄関を塞いでいる。
外出させないつもりらしい。
さすがに僕は怖くなり、いつのまにか浮き出ていた額の汗を拭った。
椅子に座りなおした僕は、しばらく玄関の方をみていたが、亡霊はスッと消えたかと思うと、また部屋の隅に戻っていた。
冷蔵庫から取り出したビールを一気に飲み干した。
普段なら一歩呑み終えたところで軽く酩酊感があるのだが、今日はちっとも酔いが来ない。
それどころか、かえって目が冴えてきて亡霊を緻密に観察し始めている自分がいた。
そして、
「ねえ、あんた。なんか用なの?僕にさ」
思い切って訊ねてみた。
声が上ずっている。
ビールを飲んだばかりだというのに、口の中がかさかさだった。
もう一本持ってこようと立ち上がると、足が震えていた。
亡霊は答えるでもなく、ただ同じように立ち尽くしている。
二本目の半分ほどを飲んで、
「返事なしですか。人んちに勝手に入ってきてさ。僕ね、おなかが空いてるんですよ。外に食事に行きたいんだ。なのにあなたが邪魔したから外にも出られなかった。用がないんだったら、僕は出かけますから、今度は邪魔しないでくださいね」
うわずっていた声も、少しずつ落ち着いてきた。
実害はないのだ、と思うようにした。
再び玄関に向かうと、またしても亡霊は玄関に立った。
が、今度は邪魔をするのではなく、脇に立ち、僕が靴を履くのを待っているかのように見える。
外に出ると、亡霊もそこに出てきた。
そして僕の少し前をどこかへ進んでいく。
僕の行きたい方向とは違っていたので、途中で逸れようとすると、まん前に回りこんできて行く手を遮る。
どうやら他の人たちにはその姿が見えないらしい。
抗うことができず、僕は亡霊に誘われるまま歩いていった。
いったいどれだけ歩いたことだろう。
いつの間にか空腹を通り越していた僕は半ばふて腐れ気味に亡霊の後をついていく。
すると、大きなマンションの前で亡霊は立ち止まり、その時初めて顔を上げ、僕の方をみた。
どきりとした。亡霊の口元だけが見えた。目の辺りは髪で隠れてよく見えなかった。
マンションはオートロックのはずなのに、亡霊が来るのを待っていたかのように開いた。
僕も慌てて彼女の後を追った。
最上階の豪奢な一室の前に立った彼女の意思が通じたかのように、ドアが開いた。
亡霊が僕を一瞥すると、すっと中に消えた。
生唾をごくりと飲み込み、僕も中に入った。
「し、失礼します」
一応声をかけた。
返事はない。
廊下の突き当たりに亡霊がいた。
ここへ来い、ということらしい。
そこは広い広いリビングだった。
辿り着いた僕は息を呑んだ。
ふたりの人間が倒れている。
男と女だ。
しかも腐臭が漂い始めていて、明らかに二人は死体だった。
仰天した僕は慌てて携帯電話を取り出し一一〇番していた。

警察が到着し、僕はどうしてここにいたのか根掘り葉掘り聞かれたが、どうにも説明がつかなかった。
だって、亡霊に案内されてここに来たのだ。
しかも死んでいたのは離婚した妻とその不倫相手だったのだ。
現場検証の間、警官たちには見えない亡霊は、肩を震わせ揺らしていた。
笑っていたのだ。
当然殺人が疑われ、僕は犯人と思われたのだが、捜査が進んでふたりが自殺だったことが判明した。
「自殺の原因に心当たりは?」
と訊かれたが、不細工な夫と離婚し新しい金持ちでイケメンの男といっしょになるというばら色の未来が待っている女に、自殺の理由なんて思い当たらないと答えた。刑事も、
「そうですよねえ」
と言いやがった。
取調室で見せられた一枚の写真に、僕は釘付けになった。
「亡くなった男性の死別した奥さんです」
長い髪の女。
顔はよく見ていなかったが、あの亡霊はこの女に違いないと思った。

あれから数日が経ち、ようやく僕は開放されて自宅に戻った。
なんとも後味の悪い事件だったが、僕の悲劇は終わらなかった。
あの亡霊はなにが気に入ったのか、僕の部屋に居座ってしまったのだ。
もう気が狂いそうだ。