第参拾伍夜

代償

(なんていやな夢なんだ)
じっとりと脂っぽい汗にまみれて目が覚めた。
布団がズシリと湿っぽい。
(気持ち悪い)
これで三日連続、おなじ悪夢に悩まされ続けている村上は、鏡の中の自分に悪態をつきながら、濃く淹れたコーヒーを、喉を鳴らして飲み干した。
不快なまま職場に行くのは気が重いし、どんよりとした顔で学校に行くのは憚られた。
村上は小学校の教諭なのだ。
自分の腰の高さまでしかない子供たちが、
「おはようムラカミー、おはよーっ」
嬉しそうな顔で群がってくるさまは彼の心の栄養剤だ。
そんな純な子供たちの前に、荒んだ表情で教壇に立つのはとても気が退けた。
休んだ方がいいと主張する心の声に抗ってまで出勤したのは、子供たち、生徒たちを裏切りたくないという思いからだった。
なにしろ終業式で明日から夏休み。
四十日以上子供たちと会えないのだ。

終業式に来ていた来賓のひとりを見やって村上は愕然とした。
「あの人はいったいだれですか」
先輩女教師の伊藤に尋ねると、
「ああ、そうか。村上君は知らないかもね。地元の市会議員の田島っていう人よ。あまり評判がよくないみたいで、人気取りのために小学校メインで行事に顔を出すの。もういい年寄りなんだから、議員もやめればいいのにさ」
伊藤の軽妙な毒舌が耳に入らないほど、村上は驚愕し顔を歪めて但馬の顔に見入っていた。
「こいつだ、この顔だ、この男だっ」

夜毎、村上を苦しめ続けてきた男の姿が、今目の前にあった。
四角い蟹のようにごつい顔。
酷薄そうな薄い目と唇。
ざらざらしたコンクリートのような皮膚。
この男は、村上の夢の中で、残忍に子供たちをいたぶるのだ。
とても言葉では言い表せないほど卑劣で酷いやり方で。
子供たちの悲鳴が谺する阿鼻叫喚の世界。
やめろと叫ぶ村上を尻目に、男は次々と幼い少年少女に襲い掛かる。
その双眸はギラギラと輝き、暴力に浸りきることに心からの愉悦を感じているのだ。
押し留めようとする村上は男に跳ね飛ばされ。何度飛び掛っていってもまるで子犬のように投げ飛ばされる。
遂に村上は最後の手段に出るのだ。
美術室の切り出しナイフを持ち出し、男に斬りかかるのだ。
無防備な男の顔面がズタズタになるまで何度も斬りつける。
そしてようやく男は子供たちを襲うのをやめ、村上に襲いかかってくる。
そして首を絞めにくる。
切り裂かれた顔の傷から血が溢れ出しているが、男はそれをまったく意に介する様子がない。
子供たちが逃げるまで、この男を引きつけておかなくては、と村上は男にしがみつく。
首を絞められるのも構わずに。
男は無感動な目で村上を睨み据えながら、首に両手を添えて楽しむかのようにじわじわと締めてくる。
唇には色がない。ナイフで切れ目を入れたような口だ。
それがパクリと開いた。
ズラリと、鮫のような牙が並んでいた。
その口から、意味不明の声が漏れる。
「ハナハナハナハナハナハナハナハナ………」
なんと言ってるのかわからない。
(子供たちは、逃げただろうか?)
すると、子供たちは周囲を囲み、男に合わせて合唱するように、
「ハナハナハナハナハナハナハナハナハナ……」
「やめろ、やめろーーーっ」
自分の喚き声で目を覚ますのだ。

「おまえだったのか、おまえだったんだな」
壇上で挨拶する田島議員に向かって歩み寄りながら、村上はうわごとのように呟いた。
「ちょっと、村上くん、どうしたの?」
伊藤教諭が声をかけるが、彼の耳には届かない。
校長をはじめ他の教師たちが異変に気づいたとき、すでに村上は壇上への階段に足をかけていた。
そして、
「おまえは懐にナイフを隠し持っている!」
と叫ぶと、田島に背後から飛び掛り、スーツの内ポケットに手を突っ込んだ。
すると!
確かにその中から、折りたたみ式のナイフが引っ張り出されたのだ。
「おまえはこれで子供たちを殺すのだ!だが、絶対にそうはさせない!」
「なにをするんだ、君は、なんの真似だ、そ、それは……」
村上は田島に殴りかかり壇上から叩き落すと、自らも飛び降りて馬乗りになり、激しく殴り始めた。
田島は村上の所業に本性を現したかのごとく、
「なにをしやがるっ」
六十歳を過ぎているにも関わらず、凄まじい腕力で応戦し始めた。
小学校の敷地内は騒然とし、だれもがふたりの争いを止めようと躍起になったが、まるで闘犬のように立ち入る隙がない苛烈さだ。
教師たちは生徒を教室に避難させようとしたが、本物の大人の殴り合いを目の当たりにし、ある者は泣き叫びある者は興奮して半狂乱になり、収拾のつかない騒乱状態と化した。

警察が介入しようやく落ち着いたが、教師たちは、
「村上先生はとても大人しく子供思いで優しく、暴力を揮うような人間ではない」
「前の学校の評判も上々だったと聞いている」
と、口々に庇いだてした。
田島議員の胸ポケットから出てきたのはナイフそっくりな折りたたみ式の櫛だったことが分かったものの、それを見つけた村上が誤解して攻撃したのではないか、という判断に落ち着きそうだった。
しかし、相手が現職の市会議員だったことが仇となり、村上の罷免は決定的なものになりそうだった。

だが事態は二転三転した。
田島議員は起訴を取り下げ、議員辞職したのだ。
そしてまだ拘置中だった村上は拘置所内で自ら死を選んだ。
いったい何事が起こったのか、学校関係者も議員の側近たちもまったく摑めないまま事件は有耶無耶のうちに収束した。

当時取り調べに当たった刑事が、重い口を開いたのは、当時の生徒が社会人となりマスコミ関係者となって真相を訊きにやって来た時だった。
「村上教諭は、実は孤児でね、本当の両親を知らなかったようだが、実母はレイプされて妊娠し、出産直後に亡くなっていたんだよ。まさかと思って、その亡くなった母親の名前を議員に告げた所、血の気を失ってね。念のために村上教諭と田島議員のDNAを調べたら……」
親子関係が立証されたというのだ。
「一度も出会ったことのない父親を遺伝子が覚えていて、ずっと憎んでいたというのなら、こんな悲しい話はない。だから、村上さんには、思い切って赦したらどうだね、と打ち明けてみたんだが……」
その日の夜に自ら命を絶ったというのだ。
「記事にするかどうかは、よく考えてからにしてくれないか」
という元担当刑事は、まるで自分が村上を死なせてしまったかのように苦悩に満ちた表情で語った。
元教え子は、結局記事にしなかった。
田島議員は痴呆になってまだ生きている。