第参拾壱夜

風の街

家の中にいる分にはあまり気づかないのだが、この町はとにかく風が強い。
「下見に来たときは、ここまで強いとは感じなかったんだけどな」
吹き荒ぶ豪風に背中を煽られた浅倉は、ふと足元に浮揚感すら覚え、すこしだけ冷やりとした。
「メアリーポピンズやオズの魔法使いじゃあるまいし」
風で人が飛びはしないのにと苦笑して、浅倉は市役所へと向かった。
社会人になって十年が過ぎた今年、三度目の転勤でこの町に来た。
「こんな田舎、どうせ暇なんだろうが、まあ息抜きにはなるだろう」
前にいた事業所の送別会で上司が、
「今度君が行くS市はなにしろ婚姻率が高いんだそうだよ。浅倉君もその町でいい人を見つけて、身を固められたらいいね」
「へえ、そうなんですか」
と興味のある振りで答えながら、内心、
(そりゃ地元の人はそうかもしれないけどさあ。俺はよそ者だぜ)
と興味が湧くことはなかった。
転勤族は赴任先の地元と関わりを持っても所詮は利害関係、仕事の付き合いに終始し、三年おきに予測不能な転勤を命じられる立場の浅倉のような男と一緒になってくれる女はそうそう現れない。
特に現代のように不安定な時代では、一緒に各地を移動してくれるような殊勝な女と巡り逢える確率は極めて低かった。
「しかしここは辺鄙な町だな。市役所がここまで閑散としているのは滅多に見たことないぞ」
人がいない。
そして、年寄りと子供しかいない。
妙齢の男女の姿など、見渡してもただのひとりとして目に止まらなかった。
転入届を出し、市内での生活にしいて二~三訊ねてから、浅倉は量販店へと向かった。
以前の町で使っていたゴミ袋は一切使えなくなった。
市から指定されて袋以外のものを使用すると回収してくれないという。
そればかりではなく、違反した人間はどういう手段でか、市の職員から特定され罰金まで支払わされるのだという。
「人口が少ないんだから特定はできそうだけど、四門DNA情報を提出しているわけではないのに、そう簡単に判るものかな?」
と疑問に思ったが、とにかく決まりは決まり、郷に入っては郷に従えの諺もある。
「こんな時代だ。余計なトラブルを起こす人間は会社にクビにする口実を与えることになるし、なにしろ俺は営業だからな。現地の市民に余計な警戒心を抱かせるのだけはご法度だ」
浅倉は真面目な男だったのだ。
それにしても、
「なんて強い風だ」
外歩きしている人が、さっきよりかなり減っている。いや人っ子一人いない。
車すら走っていなかった。
「わあ、前に進めないよ、こんなんじゃ」
浅倉の車は陸送を頼んであり、到着するのは明日なのだ。一日の違いで大変な不便さだとぶつぶつ言いながら、ようやく徒歩で大型量販店に辿り着いた。かなり大きなSCだが、
「こんなので儲かるのかなあ」
がらんとした店内。
従業員の姿しか目に入らない。昼時にはまだ早いからフードコートには人が入らないのだろうが、まったく買い物客がいないのには、少なからず不安を覚えた。
初めての店舗で何の売り場がどこにあるのかわからない。案内所にいた女性に訊くと、
「お客様、新しくいらした方ですね?」
と満面の笑みで尋ねるではないか。
「あ、は、はい。今日引っ越してきたんですが、それがなにか」
受付嬢は、いまどき珍しい漆黒の髪をした面長、やさしい目をしていた。満面に笑みを湛え、
「今日は猪狩山おろしの警報が出ている、つまり強風の日で、市民は午前中の外出を控えるんです」
「イカリヤマオロシ?」
怪訝な風で浅倉が訊き返したその時だった。
ごうん
地響き、地鳴りか?それともジェット機のソニックウエーブか、と思われるほどの腹も揺さぶる轟音が店内全体に轟いた。
あまりの凄まじさに、肝を潰した浅倉はうろたえて天井を見上げ、ついで驚いた顔のまま受付嬢を見た。
「春から夏にかけて、外に出るのが危険なほどの強風が吹きます。山の神様が凄い勢いで呼吸なさるものですから。そんな時間帯にお買い物に見えるのは、土地の方ではないか、引っ越してこられて間がない方なものですから」
満面に親切そうな笑みを浮かべた若い女は、
「ごみ袋はそちらの……」
必要なものまで推測して浅倉に告げたのである。
新しい事業所に出勤して数日間は、上司と一緒に得意先回りであった。
地元の人々は、浅倉を歓待してくれたが、同時になにか物珍しそうな目線で見ている気配を感じる。
「浅倉さんは、何年くらいここにいるだね」
「はあそうですね。前のところには三年いましたし、今回もそのくらいかなあと……」
事業所長は現地の人で転勤はないのだが、営業職はあちこちに行くのだということを、得意先も知っているはずだ。
「前の人は、所長さん、確か退職してここに腰を据えたんだよねえ。その前の人も、そのまた前の人も」
なんだって?
浅倉は一瞬怪訝な顔をしたがここは営業マン、すぐに、
「へえ。そうなんですか。ここへ来る前にこちらの市は結婚率がとても高いと聞きましたが、よほど魅力的な女性が多いんでしょうね」
と愛想笑いした。
すると得意先の社長も所長も、意味ありげにニヤリと笑い、
「あんたも、いい人との出会い、良縁があるかもよ」
と言い放ったのである。

一年が過ぎた。
相変わらず浅倉は一人身で、浮いた話もなかった。ふん、と鼻を鳴らし、
「何が良縁だ、バカバカしい」
うんざりした顔で呟いた。
確かにこの町の人々はお節介焼きで、頻繁に見合い話を持ってくるのだが、
(いくらなんでも、それはないだろう)
と思わざるを得ないような相手ばかりで、浅倉の気持ちを萎えさせたのだ。
(あの受付嬢みたいな美しい人だったら、食指も動いたかもしれないけどさ)
二年目に入って、見合い写真の質は輪をかけて落ちていく。容貌うんぬんだけでなく、年齢も高齢化していくのが不気味だった。
その内、大手取引先の社長が、突然他界した。
社長の四十九日も過ぎない内に、見合い写真の中に、故社長の妻の写真が紛れ込んでいるのを見つけたときには、浅倉は驚愕したと同時に慄然とした。
「い、一体どういうことですか」
見合いを斡旋しに来た町内会長の妻に、浅倉は詰め寄った。
「この女の人、昨日未亡人になった人じゃないですかっ!」
浅倉の母より年上のはずである。
「ここでは、そういうしきたりになってるもんでねえ。あんたもここで嫁を娶らないと、恐ろしい目にあうだよお」
冗談じゃない。
きっぱりと断って、翌日本社人事部に転勤願いをメールした。
まだ二年弱の赴任期間が残っているが、
「こんな町、一日、一秒たりともいたくない」
と思い極めたのだ。勝手に結婚相手を決め付けられるなんて、人権侵害だとも思った。
だが、本社からの返事はにべもないものだった。
浅倉は悩んだ。
退社して実家に帰るか東京で再就職するという手もあるし、残りの期間を我慢するという選択もあった。ただ、毎日のように見合い話を持ってくるお節介な連中との折衝に耐えられるのかどうか。
苦悩のまま、二年目の夏が過ぎようとしていた。
盆休みに帰省したとき、実家で山と詰まれたお見合い写真を前に、母は困惑の態で、
「あんたは今、なんの仕事をしているの?」
と問うたものだ。
「母さん実はね、今勤めている町は……」
事情を説明してみたものの、
「いい人を紹介して頂けるんだったら、結婚しなさい。今時なかなか結婚できない男性も増えてるのよ」
と手放しで喜ぶ母親に、そうじゃないんだと説明する浅倉だったが、結局話は通じなかった。
二年目の秋が深まったころ、意を決した浅倉は町からの脱出を試みた。
半ば強引に転出届を受け取り、会社に退職届を出して、車で町を出ようとしたのだ。
「意にそぐわない結婚を押し付けられるのは心外だっ!」
しかも実家の母までおかしくなっている。
市境に辿り着いたときだった。
突如、突風が車を押し戻した。
どんなにアクセルを踏み込んでも、車は一寸も進まない。
慄きながら浅倉は別の道を目指したが、同じ結果でしかなかった。
海沿いを行こうと北へ行こうとどこにも逃げ道はない。
風に閉じ込められた浅倉は半狂乱になり、
「こんな目に遭わせるのなら、いっそ殺してくれ!猪狩山おろしなんて、もう沢山だっ!なんで意にそぐわない結婚を押し付けるんだっ!この街への転勤は、リストラだったのかよっ!」
殺してくれとバイパスの上で泣き喚く浅倉は、駆けつけた救急車に捉われて病院へと送り込まれた。

数日後、退院を控えて帰り支度していた浅倉は、憔悴して目も当てられぬほど。
肩を落とした姿は諦観に彩られていた。
もう俺は、この町から出ることもできず、いずれガマの化け物みたいな女とくっつけられて生涯を終えるのだ、と思うと、ふっと気が遠くなりそうだ。
「浅倉さん」
と声をかけたのは、スラリと姿も美しい妙齢の女性。花束を手にしている。一瞬誰か思い出せなかったが、彼女はあの受付嬢だった。
「退院おめでとうございます」
と花束を手渡し、
「あなたと初めてお会いしたときから、ずっと好きでした。よろしかったらわたしと一緒に、この街で暮らしていただけませんか?」
潤んだ目に見つめられ浅倉は、
「はい、よろこんで」
と彼女の手を取っていた。

数十年の幸せな時を過ごし、今際の時を迎えた浅倉は『北風と太陽』の童話を思い出しながら、妻の手を握り静かに目を閉じた。