第参拾夜

思い出のトンカツ屋

「三十年、長いね、そんなに経ったんだね。懐かしいね。それにしても、よく覚えていてくれたもんだねえうちの店を」
店の主人は、随分と老け込んでいた。
(そうだ……あれから三十年も経ってしまったのだ……)
中条はあのころの自分が、まだ二十歳そこそこだったことを思い出し、胸がぎゅうと苦しくなった。
父が他界したのは十年前。そして先日、母も亡くなった。
いずれの死に目にも、中条は会えていない。
(実につまらないことのために、俺は両親の今わの際にそこにいることができなかった。俺はどうしようもない親不孝者だ)
ラードの沸騰する音と香りが店の中に充満し、
「これだ」
と思わず中条は喜悦の声音を発した。
鼻腔をくすぐる脂とパン粉の焦げる匂い。
その鮮やかな色の衣に包まれたのは、
(とんでもないくらいに旨い……)
分厚くて、柔らかくてジューシーな豚のロース肉。
さくりと一口噛み千切ると同時に、口中に広がる熱と香り。
味覚だけでなく互換のすべてを刺激し、遂には涙腺を緩めてしまい、涙を落とさせないためだけに瞼が自然に閉じる。
美味いものを食うときに目が閉じてしまうのは、鼻腔を経由して旨みを含んだ涙を落とすことすらも勿体無いと脳が査定した証拠であり結果なのだ。
至福のトンカツ。
誰がなんと言おうと、中条にとってこの店のトンカツは、彼に極上の幸福を与えてくれていたのだ。
「それにしても、どうして今日突然、うちの店来ようと思ったのだね?」
店の主人は柔和な目で中条に訊いた。
「いやあ、それが……」
どう説明したらいいのだろう。
あのころの感動が、夢の中で唐突に蘇ったのは今朝方のことだった。
ひとりのベッドで目覚めた彼は、
(今夜はどうしても、あの店に行かなくてはならない)
と、思い極めてしまった。
何故かはわからぬ。
理屈より衝動だった。
仕事もそこそこに早退し、電車に飛び乗って約二時間半。
思い出の土地へと戻ってきた。
小さな私鉄の駅はすっかり様変わりし、小奇麗な町並みへと変貌していた。
(当時は……、なんだろう、町並みがこげ茶色と灰色のツートンのように思えたものだったがな)
まだ、コンビニエンスストアもなく、踏切を渡った角は、
(古い木造の建物の酒屋があったはずだ)
戦争中、類焼を免れたのだと、その店の主人が自慢していたものだが、時の流れには勝てず、ピンクと青の看板のコンビニエンスストアへと落ちぶれていた。
その店を左手に見て、中条は右に折れる道を辿った。
十メートルほど進むと、左手に定食屋があったはずだが、すでに姿を消し、空き地となっていた。
そこを左手に曲がって環八に出て、信号はまだ残っていた。
渡って右に行った先、一分ほどのところに、
(あの懐かしいトンカツ屋があったはずだ)
店を見つけ中に入った時は、
(まだ、俺の思い出がすべて失われたわけじゃなかった)
熱くこみ上げてくるものがあったのだ。

来たっ!
主人がにこやかに両手で幅広い皿を捧げて差し出した。
「はい、お待ちぃ」
これだっ!
待ちかねたロースカツ定食が、中条の目の前、カウンター席に置かれた。
ぶわあと広がる高熱の芳香。
瑞々しいキャベツの千切り。
トンカツソースの甘い香り。
真珠にも匹敵する飯の輝き。
ワカメの味噌汁の口と鼻を揉み解すような匂いに喉が鳴って、中条は、
「いただきます」
と箸を割った。

無我夢中で食った。
口いっぱいに広がった豚ロースの肉汁。受け止めた瞬間、ばっと涙が噴いた。
目頭が痛かった。
鼻が熱かった。
喉の奥から、うっうっと込み上げてくるものがあり、何度も箸を止め、今までの人生で経験ないくらいに咀嚼し、ゲル状になるまで味わって嚥下した。
(トンカツって、こんなに美味いものだったんだ……)
酒は止めていたのだが、どうしてもビールが飲みたくなって小瓶を頼むと、
「三十年ぶりに来てくれたんだ、これは俺の奢りだよ」
と、主人がキリンラガーを一本プレゼントしてくれた。
ラベルを見た中条は、郷愁にとらわれて思わずシャツ越しに自らの左胸辺りを鷲掴みにした。
普段気にしたこともなかった心臓の鼓動が、耳元で鳴り響いていた。
「やっぱおやっさんのトンカツは、東京一、いや、日本一だ」
呻くように中条は言った。明らかに声は震えていた。
「そうかね、まだそう言ってくれるかね。ありがたいね。学生のころも、あんたそう言って、うちのトンカツを褒めてくれたもんだったねえ」
嬉しそうにそういう親父に、中条は涙に濡れた目で、
「俺のこと、覚えていてくれたのかい?」
と問うた。
主人は、あたりまえじゃないか、と破顔した。


最愛の妻とふたりきりの暮らしだった。
子供こそできなかったが、幸せだった。
しかし、妻の急逝で中条は生きる望みを失い、死ぬ前に思い出のトンカツを食べようと思いこの町を目指したのだ。


「そうかい、あの時の彼女と結婚したんだねえ。そうかいそうかい、亡くなってしまったのかい……。残念だったねえ。二人して来てくれてたら、嬉しさもひとしおだったろうけど、これも致し方ないことなのかもしれんなあ」
切なさそうに主人がいう。
主人の妻も、先立ったのだという。
「なあ、俺もそうだが、亡くなった奥さんの恩に報いるためにも、長生きしなきゃならんぜ。せっかく大事にしてくれたのだ。それは愛情だぜ。奥さんの愛情に報いるのなら、軽はずみなことを考えず、一日一日を大事に生きることさね」
中条は、妻の後を追うつもりだった。
妻を喪って、もう生きる意味などなくなっていたのだ。
主人はそんな中条の思惑に気がついたとでもいうのだろうか。

店を出、駅に向かってとぼとぼと歩き出した中条は、
「そうだな、主人の言うとおりだ。俺が死に急いだとしても妻が喜ぶとは思えん」
気を取り直し、
「気づかせてくれたおやさんには、また礼をしに来なくてはな」
と店を振り向いた。
「あれ?」
中条は驚き、今来た道を走って逆戻りした。
「ない、ない、ない!どこに行ったんだ?」
たった今まで食事していたトンカツ屋が、魔法のように消えていたのだ。
何が起こったのかわからないまま、駅へ戻った中条は、かつて酒屋だったコンビニに入り、買い物がてらに店員に訊ねた。
「あの道の向こうに、トンカツ屋がなかったですか?」
アルバイトらしい若い店員は首を傾げたが、質問を聞きつけた陳列中の壮年の男がやってきて、
「あの店、なくなったんだよ。店の主人が、奥さんの亡くなった後自殺しちゃってね」
としんみり語り、
「あの店を知ってる人がまだいたなんて、嬉しいねえ」
と頬を緩ませた。
中条の方はそれを聞いて、頬を、いや全身を強張らせて立ち尽くした。
そして、気がつくと双眸からボロボロと涙がこぼれ出し、中条は、
「うお、うおお、うぉぉぉぉ」
と声を上げて泣き出していた。