第弐拾玖夜

工房

「ねえ、たまには一緒に外に出ましょうよ。ずっと家にいたら、気持ちが凹むだけだわ」
妻のイズミにそう告げられて、タカシは仕方なさそうに重い腰を上げた。
タカシは不機嫌に、
「行きたくねえよ」
と撥ねつけたが、
「そんなこといわないで、ねえ、一緒に行こう。ひとりで出かけても、つまんないの」
ここ半年、常に妻の提案に対し反撥してきたタカシが、遂に重い腰を上げたのは、一体どうしたわけだったろうか。
(自分でも何とかしなきゃ)
という思いがあったのだろうか。
連れ添って十年、娘のナナは小学校に上がった。
大事な時期に、職を失ったタカシは、自己嫌悪を八つ当たりに変えて、妻子を苦しませていた。
彼は、
「俺が太っているってだけで、目の敵にしやがって!」
かつての上司に対するその怒りが、未だに続いている。
憤懣やるかたないタカシは、再就職活動もせず、家に引き篭もってゲームばかりしていた。
ハローワークにさえ行かないから、
「きっと妻は俺の態度に業を煮やしているに違いない」
と感じながらも、タカシは生活を何一つ改めなかった。
それどころか、わざと嫌がらせのようにイズミに当たった。
外出もせず風呂にも入らず、部屋の掃除もさせず、娘のナナに、
「お父さん臭い」
とまで言わせたのだ。

イズミがタカシを案内したのは、山合いの昼間の短い廃村だった。そこに、場違いな看板があった。
「ハム・ソーセージ工房?」
怪訝な顔でタカシがイズミに答えを求めようとした。
「そうよ。ここはね……」
妻が説明を始めようとしたとき、
「ようこそいらっしゃいました~」
現れたのは、四人程の調理服を纏った壮年の男性。いずれも恰幅がよく、温和な表情だ。
「よ~くぞ我が工房にいらっしゃいました~。タカシさ~ん、イズミさ~ん。是~非今日は~、美味しいハムやソーセージ作りを~楽しんでくださ~い」
所々間延びした、おっさん達の明る過ぎるバス声が、突き抜けたような晴天の青空に吹きぬけた。
「では、まずはベーコンですね」
青空調理場に連れてこられた二人は、他の客たちに会釈しながら宛がわれた持ち場についた。
先に到着していた客たちは、既に用意された材料の加工に取り掛かっていた。
「さああなた、わたしたちも、早く取り掛かりましょう」
周囲の家族連れは皆、既に楽しそうに作業に取り掛かっている。
「お父さん、このお肉、どこから切るの?」
仲の良い家族の姿に、タカシは突然逆上した。
「ふざけんなよ!何がハム・ソーセージ工房だ!俺に対するあてつけか!」
周囲の家族連れを睨み回しながら、巨大な肉斬り包丁を手に取ると、
「てめえら、何幸せそうな顔してんだ!バカか貴様ら!俺の目の前で、ヘラヘラ笑ってんじゃねえぞ!」
一番身近にいた家族のひとり飛び掛ろうとしたその刹那!
ガン!
タカシは鉄板で頭を殴られ、その場に崩れた。
客たちは皆、一瞬にして凝固したが、
「さあさあ、皆様、お騒がせいたしました。どうぞ作業をお続け下さい」
恰幅のいいスタッフがにこやかに声をかけると、催眠術から醒めたように、皆談笑しながら作業を再開した。
今、何も起こっていないかのように。
タカシの太った体はスタッフたちに担がれ、建物の方に運ばれていく。
突然のことにイズミは為す術もなく、言葉すらも失って、その後を追った。

「あの、申し訳ありません、主人はここのところ少し荒れてて、今日は気分転換になればと思って、ここにお邪魔したんです。本当に、悪気はなくて……」
必死で弁明するイズミの前に、あの恰幅のいい白衣の男だ。
「なあに、奥さん、ご心配には及びませんよ。毎日大変でしたでしょ。作業はすぐに終わりますから」
「作業?作業ってなんのことですか。あの、主人は、どこにいるんですか?」
男は満面に笑みを浮かべて、
「奥さん、アンケートにお答え頂いたときに、ちゃんと書いておられたじゃないですかあ。当工房に、不要になった肉類の処分を任せる、という項目に○をつけておられましたでしょ?」
そんな項目、あったかしら?イズミは記憶を辿ろうとしたが、男の言葉に阻まれた。
「これから先、粗暴なご主人といつまでも同居していられます?見も知らぬ他人に対して、いきなり肉斬り包丁を振り翳すような方ですよ。奥様はまだ若い。人生これからだ。悪いことはなんでも他人のせいにして自らを振り返ることもせず、八つ当たりばかりするご主人に義理を立てることもない。だからこそ、今日、我が工房においでになったわけじゃないですか?」
「な、何のことを仰っているのか、よく分かりませんが」
イズミは段々不安になってきた。
自分は、何か重大な間違いを犯しているのではないかと。
「さあ、この書類をお持ちになってください。ちゃんと医師の診断書つきです。このまま役所に提出されれば、ご主人の保険金も下りるし、住宅ローンは団体信用生命保険で賄える。あなたは晴れて自由のみでお金も入るんですから。あ、ハムになったご主人は、後日熟成してお送りさせて頂きますし、お骨は火葬してお送りするか、もしくはこちらで処分しても構いませんよ」
夫は、タカシは死んだ?
「あなた方、夫を、主人を殺したんですか??」
血相を変えて食い下がるイズミを不思議そうに見詰め、
「待って下さい、そういう契約で……」
と、そこにうろたえ気味の中年女が駆け込んできた。
「あの、すいません、わたし、うちの夫をハムにしてって頼んだものですけど、やっぱりキャンセルしていいですか?」
白い調理服の男たちは、互いに顔を見合わせた。
「あれ?人違い?」
イズミと、中年女、調理服の男たちは、互いに顔を見合わせ、沈黙した。
静寂を破ったのは中年女で、
「前払いした契約金は、取っておいて下さい。じゃ、わたしこれで」
逃げるように出て行った。
男は、唇をひくひくさせながら、
「ええっと、奥さん、まだご主人は気絶しているだけですから、救急車呼びましょうか?」
と尋ねた。
するとイズミは、
「い、いいえ、じゃあ、さっきの方の契約金で、うちの夫、よろしくお願いします」
にこやかに答えた。そして、
「この診断書って、本物なんですよね」
と念を押した。
「勿論、本物です。どこに出しても大丈夫ですよ」
「そう、良かった。じゃ、あとよろしくお願いします」

送られてきたハムやソーセージをイズミは、亡夫の実家に送った。
喜んでいたようだ。