第弐拾陸夜

冷たい手

肌を這いずり回っていた。
冷たい、冷たい掌。
それは心臓の真上辺りで止まり、皮膚を裂き、骨を打ち砕いて胸を抉ると、一気に!


「まさか、こんなところに住んでるなんて思わなかったよ」
男の声は、爬虫類のような冷たさだと、京子は思った。
(どうして、こんなところで会うなんて……)
忌まわしい過去とは手を切って、ようやく幸せを掴んだ京子は結婚して七年目。
「そう、今年幼稚園に入る娘さんがいるんだ」
男、影山は粘りつくような声で、京子に語りかけた。
「その娘さん、あんたの旦那の子?」
ニンマリと笑いながら、脂臭い顔を近づけてくる。
「本当は、違うんじゃない?ねえ、京子ちゃん。あ、それともいずみん、って呼んだ方がいいのかなあ」
「止めて!」
影山が、かつての京子の源氏名を口に出した。
それが、我慢ならなかった。
(もう二度と、会わずに済むと思っていたのに)
京子の胸の裡は、黒々とした絶望で満たされ、足が竦んだ。
「旦那は知ってるのかなあ、いずみんの過去をさあ。もし知ったら、どんな顔するんだろうねえ。そうそう、古いパソコンのハードディスク漁ったら、昔のいずみんが出てくるかもよお」
総毛立つ思いで、京子は足早にその場から逃げ出そうとした。
七年前、この男と知り合いだった頃は、
(ダニのような男)
だと思っていた。
女に喰らいつき、その生き血を啜って生きている、汚らしい虫けら。ひとたび逃げ出して袂を分かってからは、二度と会うこともないと安心し、忌わしい過去と訣別して忘れるよう心がけてきた。
幸せに結婚と穏やかな家庭。
決して手放してはならない大切なもの。
突然、今になって破壊者が現れるなんて、
(一体どういう不運なの)
影山はついてきた。
「置いていくなよ、いずみ~ん。俺たち、一度は愛し合った仲じゃないかあ。俺のためにその体を売って金を稼いでくれてたんだろ?そのくらい大切にしてくれてたのに、今のその態度は余りにも冷たいんじゃない?」
京子は無視して更に歩を速めた。
血の気が退いていく。
黙って立っていたら、貧血を起して倒れてしまいそうだ。
(こんなところで倒れでもしたら、この男の思う壺だ)
という恐怖が彼女の心を支配していた。
(私は、昔の私じゃない)
もし、七年前の自分だったら、いとも簡単にこの男に屈服していただろう。
だが今は、家庭を、夫を支え子供を育てている母親なのだ。
(こんな男になんか、負けてたまるか!)
そう考えると、不思議に度胸が据わってきた。
「ついてこないで」
小声だが、毅然とした口調で言い放った。
「なんだって?」
呆けた顔つきで訊き返した影山に、再び、
「近寄らないで!」
怒気も露わに、
「これ以上つきまとったら、警察呼ぶわよ!」
睨み据えて告げた。が、
「ひゃっひゃっひゃっひゃっ」
人目も憚らないオーバーアクションで、影山は笑い転げた。
「呼べるもんなら呼んでみろ。俺はここで、大声でお前が昔……」
といいかけた。
刹那!
「誰かーーーーーっ!変質者ですーーーーっ!警察呼んでーーーーっ!」
耳を劈くような金切り声で、京子が叫んだ。
丁度通りかかった、警邏中の警察官が見えたのだ。
自転車の警官は、声を聞きつけ大急ぎで走り寄ってきた。
「て、てめえ、覚えてろよ!」
どす黒い怒りも露わに、影山は憎々しげに捨て台詞して逃げ去った。


数日後、影山は突然、夫の勤務先に出現した。
街角で京子に出会ったのは、
「偶然なわけねえだろ。最初から調べ上げて来たんだよ」
帰宅する京子の夫を待ち伏せて、洗いざらい何もかもぶち撒け、
「家庭をぶっ壊してやる」
その一心でやってきたのだ。
就業時間が過ぎ、京子の夫、満が出口に姿を現した。
「来た来た」
邪悪な喜びに唇を歪め、歩み寄ろうとした影山。
その時!
ビクンと影山の背中が突っ張った。両手で胸の辺りを掻き毟る。
苦悶の表情を浮かべ、ついで悔しげに突っ伏すと、そのままま地面に倒れこんだ。
慌てて駆け寄った周囲の人々の耳に残った影山の断末魔は、
「つ、つめ、冷たい……」
だった。
救急車が到着した時には既に手遅れで、救命措置も、何の効果も齎さなかった。
その夜帰宅した満は、妻に夕方の出来事を語って聞かせた。
京子は、
「まあ、気の毒に。心臓麻痺かしら」
と嘆息した。
「まだ若そうな人だったけど、急にそんな風になることもあるんだねえ」
「あなたも、飲みすぎには気をつけてね、健康第一よ」
「ああ、分かってるよ」
京子は、その死んだ男が影山だとは夢にも思っていなかった。

更に数日の後、目つきの悪い中年女が、買い物帰りの京子の前に、突然立ちはだかった。
「ちょっと待ちなさいよ、あんた、いずみんっとていうんでしょ?」
女は唐突に京子に食って掛かってきた。
全く知らない顔の女だが、影山の差し金だろうということは理解できた。
「影山に頼まれて来たのね」
どんなことがあっても、何を言われても怯まない決心はできていた。
が、
「影山は死んだんだよ!あんたの亭主を脅しに行ったのに、ひとことも話さないで心臓麻痺だってさ!あんた、あいつに何かしたんじゃないの?!何さ、昔のことを忘れて、いい奥さん気取ってんじゃないよ!」
「影山が死んだ?」
「しらばっくれないでよ!あんたねえ、いい金づるになってもらうよ。影山が死んだって、あたしは何もかも知ってるんだ。絶対に逃がしゃしないからね」
掴みかかろうとした女、だがその両手は、京子の胸元には届かず、空を掴んで止まった。
女は愕然として自分の胸、心臓の辺りを見た。
「な、何?」
胸の辺りを、冷たい、冷たい掌が這いずり回っているような、そんな感触があった。
それは、心臓の真上に来ると、
「ひっ!い、痛い……、つ、冷たい……」
皮膚が裂かれるような気がした。
だが、出血の痕跡は認められない。
ゴリゴリと骨を砕き、骨膜も突き破られ、そして……一気に。

心臓がぐしゃりと握り潰された。

「ちょっと、どうしたの?ねえ!どうしたの?」
女は救急車で運ばれたが、誰の目にも手遅れは明らかだった。

京子が影山と手を切って、気質になる決心をしたのは、父の死がきっかけだった。
リストラで何もかも失った父を見限った母は、離婚届を残し家を出て連絡が取れなくなった。
京子はグレてしまい、家に寄り付かなくなった。
待っていたのは転落の青春だったが、ある日父の危篤を知り、病院へ駆けつけたのだ。
そして自分の不甲斐なさを詫びながら息絶えようとする父の手を握り、京子はうろたえ泣き続けた。
自分の手の中で、骨と皮ばかりになって、どんどん冷たくなっていく父の手。
その父の手が、彼女の窮状を救ったとは。
当然、京子には知る由もない。