第弐拾伍夜

節分会の夜

《鬼が徘徊する夜が当たり前となってから、一体何年の月日が流れたことだろう。
人の皮をかぶった人でなしたちが、毎夜徘徊し、弱きもの、罪無きものを甚振り殺す。
こんな時代に誰がした。
こんな社会を作ったのは誰だ。
怨嗟の声を上げながら、死に行く者たちの屍が累々と重なり、堆く積っていく。
この世にはいずれ生きた人がいなくなり、鬼だけが棲まうようになるのだ。
そうしたら奴らは、一体誰を襲うというのだろう。
鬼同士で喰らい合うというのだろうか。
それ即ち、生きたものがひとりもいななってしまう、絶滅への道を辿るということなのか。》

(声に出して読むなよ)
木原は自分の死体の横に立って、遺書を音読した刑事に毒づいたが、その声は耳に届かなかったようだ。
「これは、どういう世界を現しているのでしょうか」
「さあ、彼にとってみれば、善意を失ったこの社会は、鬼が支配する世界と映っていたのかもしれませんねえ」
「鬼が支配する、世界、ですか……」
この自殺した男の世界観は、どんなだったのだろう、と手をこまねいているのだろうか。
木原は凝然として自分の手を見た。
透けて床が見える。
(こんなところにいても仕方ない)
と思い直し、壁を突き抜けて部屋から出た。
何の感慨も湧かない。
悲しくも寂しくもない。
暑くも寒くもない。
火すらも突き抜けていく。どこにでも入っていける。
夜半、豆を蒔く声がどこからか聞こえてきた。
「鬼は外。福は内」
験しに、その家に入ってみた。
幸せそうな家族の顔があった。
(豆に当たれば、成仏できるだろうか)
だが、幼い子供の投げつけた豆は、彼の体を突き抜けたのみだ。
が、特に失望すらも感じない。外に出ようとした木原の背に、
「そこに男の人が立っている」
と、幼い男の子が指差した。
両親は、きょとんとした顔をしてみせただけだ。

(ここはどこだろう)
見たこともない通に出た。
その一角にある瀟洒なマンションの一室に、引き込まれるように木原は入っていった。
女がいる。
男にしなだれかかっている姿。
(この女は……)
彼の妻だった。
夫が死んだことも知らず、不倫相手との逢瀬の最中だ。
(そうだ、この女の正体に失望して自殺したんだったか……)
果たして、そうだったか?
死ぬつもりがあったか?
木原は自問自答した。
(俺は自分で毒薬など入手したのだったか?)
記憶は曖昧になっていた。
(それにしても、これが死ぬということなのか、死んでいるということなのか?)
怒りも絶望もない。
(何の感慨もない状態の初体験は、亡霊となることで得られた、ということなのだな)
妻の裏切りを目の当たりにしても、嫉妬も憎悪も湧き出ない。

(おかしい)
部屋を後にして彷徨するうちに、木原は奇妙なことに気がついた。
(どうして警察が来たのだろう。誰が俺の死を通報したのだろうか?)
しばらく歩いているうちに、それもどうでも良くなった。
(このまま彷徨うのか?永遠に?)

救急車が走ってきた。
(どうしたんだろう?)
近づいてみると、人が倒れている。
「大丈夫ですか?聞こえますか?」
救急隊員が声をかけているが、倒れた男はピクリとも動かない。
(もう無理だな、この男には、もう魂が残っていない)
肉体は生きているが、魂は事故の衝撃で雲散霧消してしまったらしい。ただの抜け殻となっている。
(入れないだろうか?)
験しに、木原は男の肉体に触れてみた。
(!)
電流が流れたような気がした。
(肉体が、魂を発している)
木原は迷わずその肉体に宿った。
突然、忘れていた感情が奔流となって迸った。
「これだ、これだこれだこれだ!」
起き上がった木原は、留めようとする救急隊員の手を振り払い、走り出した。
正に、悪鬼の形相となって。
(あの女は、俺に毒を盛ったんだ!俺を殺し、保険金を手に入れ、あの男と一緒になるために!殺してやる殺してやる殺してやる!)
夜間の工事現場から、ツルハシを奪った。
そして、男との逢瀬中の現場に侵入し、ふたりを滅多打ちにして殺害すると、体の中心から歓喜が湧きあがってきた。
(足りない、足りない足りない!)
返り血を浴びた木原の形相は、鬼すらも避けるのではないかと思われるほど膨らんだ怒気に捩じくれている。
道行く人々はけたたましい悲鳴を上げて逃げ惑った。
手当たり次第につるはしを奮う木原の目の前に、逃げ遅れた子供が転がっていた。
子供は大声で泣き叫びながら、手に持っていた豆粒を鬼となった木原めがけて投げつけた。
(あ、ああ……)
木原は崩れ落ち、魂は
すうっ……
と細い煙のように宙に立ち消えた。
節分会の夜は更けてゆく。