第弐拾参夜



「後、少し、もう少し!」
凝り固まった体が、ピクッと動いた気がした。
男は、喜色を顔に浮かべた。


「ジジイ、また変なもん買ってきて、どういうつもりなんだ!」
仲の悪い家族だ。
祖父の骨董狂いのせいだが、それだけではない。
孫は、自分に遺されるべき遺産が、湯水のようにガラクタへと変貌していく様子が許せないのだった。
祖父の財産を当てにして、遊び暮らして孫は、自分の取り分がどんどん少なくなってしまうことに腹を立てている。
祖父は祖父で、孫に金を遺さないために浪費しているかに見えた。

「なんだよ、この奇妙な面はよ!」
孫の和夫は、祖父の貞夫を怒鳴りつけた。
埃を被った、木彫りの面である。
ただ木を削っただけで、大した細工も施されてはいない。
「小学生だってこんな下手な代物作りゃしねえぞ、ジジイ!」
貞夫は呆けた顔で孫の顔を見上げ、
「これ、汚い手で触るな!その面はな、二百五十万円もしたんだぞ」
得意気に鼻を鳴らした。
和夫は愕然として、面を取り落とした。
「こ、こんなもんが、に、二百五十万も?」
「何をする、このバカ!」
貞夫は慌てて面を取り上げ、
「何の価値もないバカ孫が。金を食い潰すしか能がないクセに。お前なんかに金を遺すくらいなら、こんなガラクタに全部注ぎ込んだほうが、なんぼかマシなんだよ」
ゲラゲラ哂った。
「な、何だと。それじゃの今までの骨董集めは……」
「骨董もあるにはあるが、殆どはガラクタでな、お前にわざと金を遺さないために、価値も値打ちもないものばかりに大金を払ってきたんだ。その面は、恵まれない子供たちが集う施設で、小さい子が一生懸命木を彫って、俺のために作ってくれた大切な面だ。考えてみろ、お前みたいなぐうたらなろくでなしに遺してやるよりは、心優しいそんな子供たちに使ってやった方が、金も生きるってもんだ。大体な、お前が本当に俺の孫だという証拠もない。勘当した倅がどこぞの女に産ませたとかいって、それが事実だったとしても、俺にお前を養う義務なんざありはしないんだ。勝手に居座って好き放題の暮らしをした挙句、財産を遺せなんぞ、おこがましいにも程があるってもんだ。なんだその顔は。頭に来たか?本当のことを言われて逆切れか?殺したいか、この俺を?まあ、俺の寿命もそう長くはない。殺したかったら殺せ。但し、殺したら一文もお前のものにはならないぞ。法律ってのは、そういうもんだ。仮に事故や自然死や自殺に見せかけたとしても、お前は俺の口座がどこにどうなっているかも知りはすまい。この屋敷の中で、何の価値もないガラクタに囲まれて暮らすことになるだろうよ」
ひっひっひっと哂い転げる祖父を見て、和夫は逆上し、怒気は頂点に達した。
「ジジイ、金を遺せば、寝たきりになっても多少は面倒見てやるつもりだったのに!」
「ウソをつけ。放置して見殺しにするつもりだったクセに」
図星だった。
見抜かれていただけに、余計に火に油だ。
訳の分からない喚き声を上げ、和夫は貞夫に飛び掛った。
気がついた時には、老体は既にぐったりとしていた。
ようやく和夫は、自分が祖父を扼殺したことに気がつき動転した。
「し、しまった、金のありかが分からないのに!」
死体をリビングに放置して、和夫は家捜しを始めた。
一刻も早く金を手にし、この屋敷から逃げ出さねば、と焦った。

数年前、死にかけた壮年のホームレス男性から身ぐるみ剥がした和夫は、その男性が持っていた荷物の中の住所を頼りに、この屋敷にやってきた。
事実、彼は貞夫の孫でもなんでもなく、嘘八百でここに居座ったのだ。
最初は演技して貞夫に取り入ったのだが、ものの一ヶ月で本性を現し、好き放題やり始めた。
そんな彼をどうして貞夫が警察に通報せず、好きにさせていたのかが、彼には分からなかった。
だが、
「もうそんなことなんかどうでもいい。さっさとずらかるのが先だ」
屋敷中をひっくり返し家捜しした。
出てくるのはつまらないものばかり。通帳すら在り処が分からず、和夫は焦燥に駆られ益々荒れ狂った。
「なんてこった、どこにも何も見あたらねえ。どういうことなんだ」
さすがに疲れ果て、死体をほったらかしにしたまま、寝室に入って眠りこけた。


「とんだ悪党だな」
低く響く声に、和夫は目覚めさせられた。
「誰だ」
訊ねると、暗闇に顔が、
ぼぉっ
と浮かび上がった。
「げっ」
例の面である。面が和夫の顔すれすれに浮いていた。
「よくも貞夫さんのような善人を手にかけたな、この悪党。罰を受けるがいい」
何が起こっているのか把握できず、和夫はただ面を呆然と眺めていた。
「お前を殺すのは簡単だが、貞夫さんに免じて命だけは助けてやる。だが、罰は受けて貰わなくてはならない。三日間、お前は身動きがならなくなる。それから先は自由の身だ。どこにでもいくがいい。その三日間、お前がどんな目に遭おうと、我の知ったことではない。精々苦しむがいい」

鳥の囀る声で我に還った。
「なんだ、夢か。奇妙な夢を見たもんだ」
と横になったまま独り言をいったのだが、なにやらその声がくぐもって、自分の耳に上手く聞こえなかった。
夢の中で喋っているみたいだ。
「妙だな」
と起き上がろうとしたところ、
「か、体が動かん!」
驚いた声も、頭の中で響いたのみだ。
(三日間身動きがならなくなる)
「こ、これは夢の続きか?それとも本当に動けなくなったのか?」
時々貞夫の様子を見に来る近所の老婆が、貞夫の死体と動けなくなっている和夫を発見し、恐慌に見舞われながら、警察と救急車を呼んだ。
和夫を診た監察医は、
「こいつも死んでるな」
と捜査員たちにいったのだ。

「ま、待ってくれ、俺は生きている!身動きできないだけなんだ!」
本人は叫んでいるつもりなのだが、声は誰の耳にも届かない。
和夫の体は、貞夫の遺体と共に死体安置所に移された。
「やばい、このままじゃ生きたまま解剖されちまうんじゃないのか?」
だが、和夫の死に不審な点はなし、と判断した警察は司法解剖を行わないと決めた。
翌日は友引で、葬儀は次の日に繰り越された。
「助かったぜ、今日焼き場に連れて行かれてたら、生きたまま火葬されてたところだからな」
通夜、葬祭場にはふたつの棺桶が並んだ。
明日が三日目、葬儀の途中で和夫は目覚めることになるだろう。
「ふふん、みんなびっくりするだろうよ。だが、生き返ったら、俺は殺人犯なのか?それとも一度死んだことになっているんだから、無罪放免になるのか?どっちにしても、三日間身動きできないお陰で、俺は助かることになりそうじゃないか?」
和夫は無音の哄笑を頭の中に響かせた。

「遺体の損傷が激しいので、葬儀の前に火葬して欲しいそうなんです。伝染病なども心配ですし」
「そうですね。どうせ身寄りのない二人だし、苦情が出ることもないでしょう」
通夜客の足が遠のいた明け方、ふたつの棺桶は火葬場に運ばれた。
「ま、待った、待ってくれ、話が違うじゃないか。後、三時間くらいで俺は生き返るんだ、もう少し待ってくれよ!」
和夫の声は、誰の耳にも届かない。

早朝から焼き場は混んでいた。
「な、なんとか間に合うだろう。まったく、ハラハラさせやがって!」
遂に五分を切った。
七十二時間が過ぎようとしている。
棺桶がガタガタと揺れている。
指がピクリと動き、顔の筋肉が動いた。
「よっしゃあ!生き返るぞ!」
身動きしようとした刹那!
「点火!」
ゴオッ!
四方八方から、紅蓮の炎が棺桶を襲った。

「今、中から叫び声が聞こえたような気がしませんか?」
葬祭会社の若者が、火葬の担当者に訊ねると、
「ここではね、そんな空耳、よくあることなんですよ。あなたも、その内慣れます。慣れたら、聞こえなくなりますよ」
と答えた。

葬儀の最中、貞夫老人と親交のあった郵便局員が、役所の人間や施設の人たちに、
「孫が来てくれたっていって、本当に喜んでいましてね、和夫さんのために、まとまったお金、うちに預金してたんですよ。でも、ふたりして亡くなってしまうなんてねえ。もしも、ふたりとも何かあるようだったら、全部施設に寄付したいとおっしゃってましたから……」
施設の子供たちが作った面は、葬儀の後、どこにも見当たらなくなっていた。