第二拾夜

友達

奈保子は、呆然と立ち尽くしていた。
取り落としたバッグから中身が四散している。
玄関を開けた時から、嫌な予感がしていた。
それは部屋に充満した死の匂いがなせる業だったか。
視線の先に。倒れた男。
「一体これって、どういうこと?」
知らない男がどうして、自分の部屋で、血まみれになって倒れているのか。
頭の中が、真っ白になった。
(自分はこれから何を為すべきなのか?)
まったく考えがまとまらない。


同じ頃、同じマンションの二つ隣に住む茂は、帰宅してきて、自分の部屋のドアの前に佇む男を見出し、訝しげに首を傾げていた。
(誰だろう?)
見たことのない痩せた短髪の男。
この寒空の下、トレーナーにGパン、裸足に汚いスニーカー。ボロボロのギターケースを背中に担いでいる。
と、
「しーげーるーくーん、あーそーぼー」
突然奇声を発したのだ。慌てた茂は、走り寄って、
「誰だ、お前!人んちの前で何してんだ!」
と詰め寄った。
振り向いた男の顔を見て、茂は戦慄を覚えた。目の焦点が合っていない。
「あー、しーげーるーくーん、まーてたよー」
間延びした声、嬉しそうに顔を歪め、言葉のゆっくりさ加減とは裏腹に、勢い良く抱きついてきたのだ。
「な、何しやがる、この野郎、放せ!」
茂は思い切り男を引き剥がすと、通路に突き倒した。
男の腕力は大したことはなく、体重は紙のように軽かった。それが却って不気味で、男はひょろりと立ち上がり、
「なーにするのさあー、ぼーくたちー、とーもだちーだろー?」
再び茂に迫ってきたのだ。
その時、隣の部屋の扉が開き、ひょこりと顔だ出した者がいる。
「何してるの?」
隣の住人は、母子家庭らしく、若い母親と五~六歳くらいの男の子が住んでいる。
顔を出したのはその男の子で、無邪気な目で二人を見ていた。
「こんな時間にケンカ?」
にこにこしながら、興味津々の態で二人を交互に見ている。
(確かこの子の母親は、夜仕事にでかけてるんだった)
深夜ひとりで留守番する年齢とは思えなかったが、中からは、他に人の気配は感じられない。
男は方向転換し、男の子の胸倉を掴んだ。
「ねえしげるくん、君、友達なのに、どうしてそんなひどいことするのさ。ひどいじゃないか。君が僕にいじわるをするんなら、僕はこの子をひどい目に合わせるからね」
さっきまでの間延びした口調が消え去り、舌鋒鋭く茂を非難すると、
「こうしてやる」
いきなり男の子の首を絞め始めたのだ。
その目は男の子の顔を見ていない。寄り目になっている。
まるで自分の内面を映し出そうとでもしているかのように。
「なんてことしやがる!」
茂は男の顔面を殴りつけた。隙だらけで、男は少年を落とし、自分は背後に吹っ飛ばされた。
「大丈夫か」
茂は少年を背後に庇い、携帯電話を取り出した。
「今、警察を呼ぶからな!大人しくしろよてめえ!」
男は尻餅をついた姿勢で口をあんぐり空けたまま、腰のポーチから手探りで何かを取り出した。
「な、なんだ?ま、まさかお前それ!」
男が取り出したのは、折り畳みナイフ。
しかも、血塗れだ。
「ぼくね、ぼくはね……」
男は泣き出した。
「君を友達だと思うから、ここまで来たんだよ」
「だから、俺はお前なんか知らねえっていってんだろうが」
茂が叫んだ時だった。
男の背後でドアが開いた。
顔を出したのは、奈保子だ。
「誰かーーーーーっ!人殺しーーーーーっ!」
その叫び声に、男が振り向いた。
茂が飛び掛り、ナイフを叩き落した。
奈保子は一一〇番に電話し、
「早く、人殺し、早く来てーーーーっ!」
男と揉み合う茂は、必死で取り押さえ、ナイフを遠くに蹴飛ばした。
永遠のように長い時間。
いや、時間が止まってしまったかのような恐怖を、奈保子は味わっていた。
警官が到着し、ホッした一瞬、茂に隙が生まれた。
その途端、男は茂の手を逃れ、脱兎のごとく駆け出してマンションの階段を駆け上った。
後を追う警官の目の前で、男は最上階の踊り場からダイビングした。
落ちていく男と目が合った茂は、あまりの恐怖に通路で固まった。

頚骨を骨折して即死した男は、ギターケースとウエストポーチしか持っておらず、身分を証明するものが何もなかった。
「本当に知らないんです。全然知らない相手です」
茂は必死で警察に説明し、奈保子も、
「帰宅したら家で人が死んでいたんです」
どうして中に入ったのか、さっぱり分からないと警察に説明した。
部屋の中で死んでいた男は、新品の合鍵を持っていて、奈保子の勤務先のロッカーから盗み出し、合鍵を作っていたのではないか、と警察は考えたようだ。
「あなたのストーカーだった可能性もありますね」
転落死した男のナイフについていた血痕は、奈保子の部屋で死んでいた男のものと一致した。
これで殺人の犯人は断定され、被疑者死亡のまま書類送検される見込みだ。
少年の母は、現場が騒然としているところへ勤務先から帰宅。
わが子が人質にされ首を絞められた事情を知り、しばらくの間取り乱していた。
一番冷静だったのは、その少年だったかも知れない。
死んだ二人の男は、名前も不明、どうしてこのマンションに来たのかも不明。
どうして茂のことを知っていたのかも、奈保子の部屋の鍵を持っていたのかも、何もかも不明。
一時期、
「名無しの殺人事件」
としてマスコミが取り上げたが、写真を公開しても、彼らのことを知っている者は誰一人として名乗り出なかった。
あまりの不気味さに奈保子はすぐに転居していった。
茂もしばらくして、そのマンションから去った。

それから一年あまり。
偶然仕事で近くを通りかかった茂は、マンション前が騒がしいのについ釣られ、様子を見にいった。
救急車が止まっている。
担架で運び出されていくのは、茂と奈保子の間の部屋に住んでいた、あの母親だ。
野次馬に、
「どうしたんですか?」
と尋ねると、
「どうも急性心不全らしいですよ」
という返事。あの事件を急に思い出して茂は少年が気の毒に思われ、
「可哀想に、お子さんは誰か見てるんですか?」
と訊いた。
するとご近所らしい野次馬は、怪訝な顔をして、
「え?あの人は独り暮らしだよ。子供なんかいないよ」
と答えた。