父が亡くなってから、自分調べをしてみた。
弟が、親戚などを回って家系図を作ってくれている。
江戸末期までは、写真などもあり、ある程度は事実だと分かる。
が、私も一度だけしか見た記憶はないが、本家にあった家系図とはいささか違っていた。
父が亡くなり、知らなかったこと、勘違いしていたことがかなりあるのにも気付いた。
私が小学校に入る前から、貧乏屋の足長おじさんとなり、私の海外での活動も、その子孫が見守ってくれていたと思っていた人は、ご本人の最近亡くなった娘さんの作品などから、私とはかなり近い方だったと思っていた。
が、どうもこれは勘違いかも知れない。
一部の昭和年鑑にも載る方だったが、今や生死の境目にいて、次男を養子に欲しいと依頼された叔父さんの話では、本家の生まれではあるが、本家とはあまり近い間柄ではないと言う。
その方は、田舎にはかなり貢献した方だったが、なぜか地元での評判も悪い。
弟など、その存在すら知らず、新たに作った家系図にも、その方の名前が抜けていたりする。
天台の大僧正はこのあたりは知っており、父の葬儀の際に、その方の娘さんが亡くなった話についていけたのは、叔父や叔母を差し置いて、私だけだった。
その方の墓は寺の最前列にあり、親戚も知っているはずだが、なぜか皆さん知らぬ素振りだ。
かなりの方だったから、資料などには載らない悪いこともしていたろう。
ひょっとしたら、田舎では無視されていたのは、そんなことも関係するのだろうか?
父は、あまりしゃべらない人だったが、教育者としての清水次郎長は尊敬していたようだ。
曾々祖父あたりはほとんど家には帰らず、地方回りをしていたようだが、二宮金次郎とは多少接点があったようだ。
あるいは、次郎長あたりとも付き合いがあったのやも知れぬ。
とにかく、曾々祖父の孫、つまり私の祖父は、警察さえ触りたくない相手だったようで、一度強盗が入った時があったが、強盗が腰を抜かさんばかりに逃げたという話は聞いていた。
父の晩年は、地元でも外れた輩を矯正するボランティアをしており、離れには背中に絵を描いた人たちもよく来ていたようだ。
その頃は、私は海外で鉄砲玉みたいなことをしていたから知らない。
が、子どもの頃から色柄ものには、比較的慣れてはいた。
今でも子か家にやって来る魚屋さんの親父などは、歴史でしか知らないような方の手先として働いていたこともあり、なぜか今でも付き合いがあるらしい。
かぐや姫の、草刈さんと似た悩みの時期があった。
今更ながらに、よくぞ生き抜いたぞ俺、と思うことがある。
が、親父あたりの苦しみとは比べものにならなかったかも知れない。 ふたつみつの苦しみを除けば。
江戸初期あたりまでは、物的痕跡などから先祖の話はほぼ確認できた。
が、それ以前の話は分からない。
本家でも、田舎でも尊敬の対象となっている京都の大叔父あたりが、所以あって作成した家系図だからだ。
その最初の方には、子どもだった私でさえ知っていた名前があったが、室町末から江戸へのつながりが曖昧で、これは捏造かなと思っている。
弟が作った家系図は、確認できる江戸末期から始まっており、それ以前はない。