【秘話小説】佐久新学院 | しま爺の平成夜話+野草生活日記

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本家も初盆であり、何十年かぶりに本家の敷居を跨いだ。

いつか見た青磁の壺は消えていた。

本家の大親父殿はとうになくなっていたが、この方はかなりよく知っている。 放蕩家であった。

正月には、妾さんのところへ正妻を挨拶に行かせる人だった。

その息子さんである初盆となったお方も知ってはいたが、この方のことはあまり記憶がない。

大親父殿の大叔父あたりに、新佐久という方がいた。

各地を修行に周り、男組小吉あたりとも顔ぐらいは合わせたことがあるようだ。
小吉の息子は、徳川の重臣だったにも拘わらず、明治政府のご意見番として、明治政府や皇室でも重用されている。


そのあたりの関係もあってか、新佐久は今や日本最大の教育グループを作った。

名前は新佐久からとって、佐久新とした。


が、新佐久はすぐに飽きた。

作ることには熱心だったが、経営には興味がなかったからだ。


佐久新の経営を、県の頭だった鮒畑家に渡した。



佐久新のホームページを見ると、初めから鮒畑家が作ったようなことが記されているが、新佐久が舞台を作ったのである。


それから時代は流れる。

新佐久の孫の家で、東京五輪に備えて、何年もの月賦で日立のテレビを買ったばかりの頃だった。


のちに天台の大僧正となった坊主が訪れ、経を読んでいた時のことだ。

隣では、盆には隠すべき神棚の隣に鎮座するテレビ様を見る子どもたちが、熱狂して声を上げている。
野球界では有名になった、
夏春初連覇をした、佐久新学院の控投手が甲子園でマウンドに上がっていたからだ。


坊主の読経は心なしか速くなり、しばらく後には、子どもに混じって顔を赤らめていた。

身体中から汗が吹き出していたが、残暑のせいだけではなかったろう。


佐久新は、久々に優勝旗を手にした。