座敷童に関しては、今もここを見てくださっている、私の過去を知るマコちゃんでもたぶん難しい相手だ。
ギネスブックにはいろんなレコードの持ち主で名前が出てくる、あの方がらみである。
日本では全く問題にならないが、国によっては外国からでさえ名前を出すことは命がけだ。
それを彼はした。しかも現地で。
数日後には、少なくともアメブロから消えた。
日本ではありえないが、国によっては名前を見ただけでそれが解る差別確定世界がある。
そんなことはつい最近知ったが、実は私は座敷童の本名はいまだに書けない。
難しすぎるのだ。
座敷童がなぜ家に来たかは説明に数十年かかるし、私でさえよくわから無いことが多い。
しかし、なぜ座敷童になったjかは、大かた予想がつく。
それは、長男がまだおなかにあったころだ。
プー太郎になった私は、生活費稼ぎのため賞金稼ぎに走る。
と、最初にチャレンジした作品が、マイナー雑誌とはいえ全国版で活字になった。
調子をよくした私は、メジャーな本にもチャレンジ。
そこでも佳作入賞し、全国的な本の一部を裂いた。
そのテーマは、世界で一番●●なあなたへ、という北陸では知られた本で、かなりの数の人が見たろう。
どうだ、こんなになったよと、私は自慢した。
これがいけなかった。
私はあの方同様、嫉妬という感情がない欠陥人間だ。
だから、そこには当然自分がいるべきだという座敷童根性を予想できなかった。
相手はKちゃんを妄想した小説だったが、座敷童には妄想とか小説とかいうものを理解する余裕はなかった。
まあ、これは今の私なら決してしない。
が、若かった。
先日おむつを付けながら次男の隠れ家探し出た私は、帰り道で和光とか朝霞とかいう町を通った。
ありえないのに、目をきょろきょろする自分があった、
あの線を長く使っていたのですか。
私も3から4年くらいは、あの日本有数の痴漢電車に揺られていました。
でも、Kちゃんの匂いを感じられなくなっていましたなあ。