【母の記憶】最近、時々思い出す | しま爺の平成夜話+野草生活日記

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父が亡くなってから、母のことも時々思い出す。

母は優しくも、ちょっとした粗相だけでも、青竹が折れるくらい叩く心境の方でもあった。
(今では、立ち食い、立ち小便あたり前だが)

素人さんに手を出そうものなら、飯の箸づかいが汚ななら、あるいは言葉遣いが未熟だと、竹刀が折れるくらい体裁に拘る人でもあった。

戦前はおひい様々であり、友人からは朝鮮人マフィアの一員とも言われていた、関東三奇祭を司る家に生まれ育った。
子どもの頃よく聞かされたが、なんとか伯爵からダンスに誘われた程度には美人で、おてんばでもあった。
そのせいか、庶民感覚に近かった私には、こわくもあったのだ。

よく新聞には出る人だった。
だから私が小学生時から新聞に載るのは不思議とも思わなかったし、中学で声かオンエアされ、廻りの親戚友人が騒いでいるのを、奇妙な感覚で見ていた。


母の親父、つまり祖父は地元ではかなり怖がれていたようだ。

最近は、なんとか鑑定団のロケ地を提供したり、番組を盛り上げるためにか、ヒットラー世界最高賞をもらった御仁の安い作品を、さも家宝の如くに見せ、プロデューサーを喜ばした。

実は、天皇からお褒めをいただき歌まで賜った婆作品の10倍は国際的価値があるドイツ人作品があることは、知っている。


が、それはあの髭じいさんあたりは知っていても、番組では婆様作品を歴史的価値があるものとしていた。

この家は、小さい私にはディズニーランドだった。 部屋が実家の数倍はあり、今では厳しい生活のようだが、お盆にはたくさんの人が集まって宴会の毎日だった。

ただ、祖父は相当恐い方だったらしく、親戚でも無駄口は叩けなかったし、祖父に抱いてもらった記憶がない子が大半だった。
(ただし、父方の祖父ほどはこわくはなかったろう)
そんな中で、一族の長として生まれた私は、祖父の子である叔父さん叔母さんたちがが羨ましがるほど甘やかされた。

近くの山に茸採りをねだって、山歩きさせたこともある。


そんな祖父か亡くなる直前、実家に来たことがある。
祖父の訪ね来たのは、私の記憶ではそれだけである。
そんな祖父は、大平さんを『あれは男だ』と評価していた。

あるいは、天皇随行員のシタッパとして来た大平さんを知っていたのかも知れない。

確かに、あの牛爺の亡くなる直前の姿は、男だなあと深く感銘した。

中川さんと並び、日本最後の武士だった気がする。