大江健三郎氏と題名をつけたものの、私は氏のことをほとんど知らない。
私が氏の名前を初めて知ったのは大学2年生くらいの時。
つまり、ざっと数えて40年ほど前のことだ。
友人が、氏の『洪水はわが魂に及び』を絶賛していた。
もともと文学にはさっぱり興味の無かった私だが、あまり熱く語るので初めて文学書と言われるものを買った。
確か深緑色の硬い箱に包まれた本で、当時1000円とか2000円とかした記憶がある。
当時としては、相当高い本だった。
が、これは苦い経験として、いまだに私の記憶に残っている。
ページをめくり読み始める。
いや、読もうとした。
が、1行目からつかえた。
読めないのだ。
日本語の音、文字は読めるのだが、日本語としての理解が出来ないのだ。
最初の1文に、5分かけても理解できない。
1時間かけても、3行と進めない。
推理小説なら1日もかからず読んでしまう、わずか2、300ページ程度の本だったが、『洪水はわが魂に及び』は3、4日かけて、やっと3ページくらいしか読めなかった。
そこで私は諦めた。
それ以降、その本を開けることはなかった。
同時に、現代文学作品というものが一層嫌いになった。
今なら、あるいは読み切れたかもしれない。
が、当時の私は、あまりに幼く、学内に私服警察が入ったり、数人で麻雀の相談をしているだけで機動隊らしき面々に追われたり、知り合いが角棒で殴られ血を流したりしてはいたが、その本の背景などさっぱり理解できなかったし興味もなかったのだった。
ずいぶん経って、ノーベル文学賞で大江氏の名前を聞いた。
あんな文章を外国語に訳せる人がいるのかとの感慨はあったものの、大江氏の文学者としての価値はさっぱり理解できなかった。
そして一昨日。
久々に大江氏の名前を聞いた。
演説そのものを聞いたわけではなく、マスコミの流している概要しか知らないので決めつけてはいけないが、首相を呼び捨てで非難したらしい。
これはどうなんだろうか。
世の中には、社会的立場などがある人の言葉を模倣する人がいる。
安倍首相を安倍と呼び捨てにすることがいいことだ、といったようなトンチンカンな見方をしてしまう方もいるかも知れない。
安倍首相批判は好きにやっていればいいと思う。
が、ノーベル文学賞受賞者として、これはいかがなものかと思った。
なお、この集会には香山リカ氏もいらしたらしい。
なにかと話題の先生だ。
心理学者かマスコミでは著名な先生かは知らないが、基本的に私は嘘つきは嫌いだ。
私も昔、大ウソをついたことがあるし、今でも小さい嘘はついている。
このブログでも、言いたくないことは言葉を濁してごまかしている。
が、汚い嘘はできるだけ付かないようにしているし、嘘をついた後のエネルギー消費を考えて、最近はほとんど嘘はついていないと思う。
香山リカさんという人も詳しくは知らない。
が、少なくともツイッターあたりでごにょごにょやっていたのは、きわめて嘘の臭いがする。
どんなに社会的に立派だと言われても、どれほど著名な方であろうとも、私はそうした方々の言うことを素直には聞けない人間になってしまったし、尊敬もできない。
ついでに言うと、小西議員のような方は、私の理解の外にある。
正直、価値観が理解できない。
が、それでも皮肉コメントを入れたいくらいの方ではある。
先日、議員の呟きに皮肉をいっぱいこめてコメントした。
が、どうもその記事自体が消えてしまっているようだ。
不思議である。
なお、阿比留氏も書いていらしたが、菅元総理の記事は私には何を言いたいのかさっぱり理解できないことが多い。
安倍さんに影武者ライターがいることが分かった。
これはある意味当然だろう。
同時に、少し残念な思いもある。
以前から言っているが、菅元総理にも裏方ライター。いやせめて校正をする方がいればいいのになあ、と思ったりする。
私は文章読解能力もテレパシー能力もないから、起承転結がなく一気に起から結に行ってしまう話はさっぱり理解できない。
また、30世紀あたりには常識になるかもしれないが、現在では問題外の考えである科学も理解できない。
だから、元総理の話を理解し称賛する方々は、すごい能力があるのだなあと感嘆する。
でも、やはり校正者は必要なのではあるまいか。
自分のことを棚にあげて言えば、慣用句や助詞くらいは常識的な日本語を使ってほしいものだ。
なお、昔の話になるが、何語なのかは分からなかったが、英単語を並べた作品を比較的早い時期に止めたことは、評価したい。